しておよそ一ケ月に及ぶ調査・検討の末、球団が出した結論は
「監督・落合」
だった。
「わがまま」「自分勝手」という悪評は、
内部調査によって事実誤認ということが判り、
何より白井オーナーがこれまで刊行された落合の著書を熟読し、
落合のしっかりした野球観に心酔した、というのが大きかった。
球団内部には反発の声も多かったけど、オーナーの“鶴のひと声”で
落合への監督就任要請が決まったんだ。
落合は一九九八年シーズンを最後にユニフォームを脱ぎ、
その後は解説者として
独特のなぞなぞ解説
で一部コアなファン層の支持を受け、
森監督に請われて横浜の臨時コーチをしたこともあった。
二〇〇一年に出版した著書『コーチング』では、
「私が監督なら〜」という監督論を展開し、
現場復帰への意欲をチラ見せしていた。
そして、東京の落合の自宅、ノブタンの元にナゴヤのスポーツ新聞記者から電話が入る。
ノブタン |
「落合に監督の話? そんなの新聞が好き勝手に書いてるだけでしょ。いつものことよ」 |
記者 |
「ナゴヤはすごいことになってますよ! 本当に落合さんは何も言ってないんですか? 球団からの連絡はないんですか?」 |
ノブタン |
「そんなにすごいの? ナゴヤの火種は?」 |
記者 |
「ボウボウです! 名古屋はボウボウです!!」 |
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落合信子 『一心同体 愛と人生、成功のセオリー』 p.35より
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名古屋の記者さんから電話を受けて、火の点いた私は、落合に覚悟を促しました。
「あなた、今度こそ本当よ。わざわざ名古屋から電話をくださったのだもの」
「だからな。そういう心配は、球団から連絡があってからでも遅くないだろ」
落合は相変わらず本気にしていないようですが、一度火の点いた私は黙っていられません。
そして翌日の夕方にも念を押したのです。
「今日は来ないよ。今日は日曜日だからね。来るなら明日の月曜。
いい、ちゃんと覚悟しなさいよ」
名古屋からの電話以来、どうも落ち着かない私は、
洗濯物を取り込むのを忘れていたことに気づき、
二階へ上がりました。冷え切った洗濯物を畳んで、下へ降りていくと落合はだれかと電話で話していました。
「はい…はい…はい…」
どんよりとした声、神妙な面持ち、暗い雰囲気です。
だれかがご病気か、ご不幸でもあったのでしょう。
親戚か、野球関係の方か。
私は落合の隣のイスに座り、様子をうかがっていました。
お見舞いなら花がいいかしら?
ご不幸なら、今の時期、喪服は冬用かしらねぇ。
「…そうですか。でも私の一存では…家族のこともありますし」
ん? 私のアンテナがピクリと反応しました。もしかして…。
私は落合の肩を軽く叩き、バットを構えるジェスチャーをしました。
(「野球?」)
落合は首をタテに振りました。
えっ? 日曜なのに? 来た!!
私は即座に行動に出ました。
メモ用紙としていつもテーブルに置いてある広告の裏に<OK>と書いて
落合に見せたのです。
落合の目が一瞬輝きました。
私はさらに<前向きに>と紙に書きくわえました。
「はい。前向きに考えさせていただきます」
落合は、急にしっかりした口調でそう答え、電話を切りました。
「あなた、やっぱり!」
「あぁ」
「よかったじゃない。これでやっと中日のファンに恩返しができるわよ。
私も協力するからさ。またがんばりましょ」
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こうして、あのFA宣言からちょうど十年。
落合博満は再び中日のユニフォームに袖を通す。
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落合が読売をクビになった直後に出版されたもので、
当初は読売移籍三年目の活躍を綴ったものとして出される予定だったものが、
急遽「オレはこうして読売を出された」という暴露本になってしまった。
日ハムでユニフォームを脱いだあとに出した著書。
こちらも「必要だと言って獲ったのに信頼して使ってくれなかった」
当時の日ハム監督への恨みつらみが書かれている。
東北の人間は執念深いぞ。
落合が現役時代に出会った、数々の「その道のプロ」について書かれた書。
半分以上は「選手以外の野球関係者」であるところがいかにも落合らしい。
裏方さんの仕事がいかに重要であるかについて丁寧に語っていて、
いかにも落合らしい。
一方で選手紹介の方は、「ああ、ページ数合わせだな」
と見てとれるような適当な文章が多い。いかにも落合らしい。
なんかの新聞に連載していた、
プロ野球解説者・評論家としてそのシーズン(一九九九年)にあったさまざまな出来事について、
問題提起や自分の意見を綴っている。
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