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の谷のナウシカ、崖の上のポニョと来たら、 次は『奈落の底の山崎』か。 というくらいドラマチックな山崎武司の二〇〇二年が始まった。 山田久志から「お前の力が必要だ」と言われ、キャンプでは三塁の守備練習まで精力的に行い 「竜の長嶋茂雄」 の異名を取ってたか取ってなかったか忘れたけど、 多分取ってなかったと思うけど、 開幕して一か月も経たないうちに二軍にスコーンと落とされる。 理由は「打てないから」だ。
まあ 大きな子供 の山崎だから、 このコメントだけ見ても久志にどんな思惑があったかは分からない。 そして皮肉なことに、山崎が一軍ベンチから消えた五月からチームは快進撃、 五位から三位に浮上するんだ。 しかし七月に入るとチームは調子を落とし、 故障のゴメスと入れ替わりで山崎が一軍に上がってきた。 二軍でじっくり再調整させ、 苦しい夏場がやってきて、頼りのゴメスがいない今だからこそ、 さあ山崎、 今こそお前が二軍で頑張ってきた成果を見せてもらおうか!
そして山崎は再び二軍に落ち、 ウエスタンでは試合開始だけベンチに座り、 試合が始まると一打席だけ立って凡退して、 そのまま早退して球場を後にし、 新築中の家の工事風景を一日中ながめて時間を潰す というダメ人間な日々を過ごし、この年のシーズンを終えた。 監督を退任して五年後、二〇〇九年二月十四日のTBSラジオの番組で、 山田久志は中日監督時代のことをこう振り返っている。 「コーチと違って監督ってのは勝つのが最優先だからね。 勝たなきゃいけない、お客さんも入れなきゃいけない、 監督ってのはいろいろ考えてやらなきゃいけないんです。 …だから、選手を把握できてなかった」 山崎が「なにくそ!見返してやる!」と逆境を発奮材料にするタイプじゃなく、 「見放されてるんなら、もういいや」とフテくされてやる気をなくすタイプ だってことを、久志は把握してなかったんだね。 でも、こうして当時のことを振り返って、 反省すべきは反省するあたりが久志のえらいとこだね。 |
久慈照嘉 (東海大甲府) 近藤真一から一安打したが敗北。 【1987春】ベスト4 準決勝で立浪和義のPL学園に敗戦。 エース野村(大洋)から2安打するも、 二番手橋本(読売)の前にノーヒット。 【1987夏】二回戦敗退 江口(ダイエー)の佐賀工に四番出場したが、1安打で敗戦。 立浪和義 (PL学園) 浜松商相手にノーヒットでボロ負け。 【1987春】優勝 芝草宇宙(日ハム)の帝京、久慈照嘉(阪神)の東海大甲府を撃破し、決勝では三輪隆(オリックス)の関東一高に7−1で圧勝、 立浪はキャプテンとして五試合連続安打で優勝に貢献した。 【1987夏】優勝 決勝は仁志(読売)、島田直也(日ハム)の常総学院相手に5−2で完勝し春夏連覇。 六試合連続安打で、この年は春夏全十一試合で連続安打を決め、 中日にドラフト一位指名される。 種田仁 (上宮高) 三回戦の高知商戦では元木が甲子園では考えられない「隠し球」を使い、 “らしさ”を見せた。準々決勝で真中(ヤクルト)の宇都宮学園に敗れる。 【1989春】準優勝 決勝は山田喜久夫(中日)の東邦と対決、 最終回で種田が内野ゴロをサヨナラ悪送球し決着。 試合後、種田はベンチを蹴っ飛ばしてマスコミに悪態をつき、これまた“らしさ”を見せた。 【1989夏】ベスト8 準々決勝で大越基(ダイエー)の仙台育英に破れる。 谷繁元信 (江ノ川高) 横浜商業に敗れる。 【1988夏】ベスト8 準々決勝でエース・前田幸長(ロッテ)と“九州のバース”山之内(ダイエー)と当たり、 敗れる。 |