生・山田ドラゴンズの最初の仕事は、
守備陣の大改革だった。
春季キャンプで誰もが度肝を抜かれたのは、
山崎武司にサードの守備練習をさせた
ことだ。
斬新過ぎんぞ、久志。
|
|
|
監督就任時に「面白い野球をやる」と言ってはいたが、
面白過ぎんぞ、久志。
|
|
さらに守るところがなかったから外野を守っていた福留を本格的に外野にコンバート、
主にセンターを守っていた荒木を二塁に、
一番荒木、二番井端、三番福留と俊足巧打の三人が機動力で先制攻撃する
「ブルースリー構想」
を打ちたてた。
その後、荒木&井端は“世界の二遊間”と呼ばれるようになり、
福留はゴールデングラブ賞の常連となるなど、
久志の構想は後に大当たりとなるんだけど、
それはまだまだ先の話。
この時点では荒木は「とてもスタメン上位のレベルでは無い」と
ブルースリーは開幕一戦目から企画倒れ
となったんだ。
アイディアは良かったんだがな。
|
|
|
久志は割と「安定感」を重視してたからな。
ギャラードにしても山崎にしても。
|
|
|
勝負強い、勝負弱いという言葉があるが、
勝負強さとは持って生まれた天性の才能ではなく、
自ら育て、身に着けていくものなのだ。
まだ中日に投手コーチとして来る前、一九九八年三月に出版。
元NHKアナウンサーの中村克洋による山田久志研究。
山田久志は高校時代に大学からスカウトが来たが、
断って社会人に行っている。
その理由は
「野球部の殴られる蹴られるの暴力的体質がイヤだから」だそうで、
妙なところで落合監督と共通点が見られる。
というか秋田の学校の野球部はそんなにひどいのか。
阪急時代はエースとして十二年連続で開幕投手をつとめた。
三年連続のMVPに輝き、阪急黄金時代を支えた。
山田久志サブマリンスタジアム
(秋田県能代市)
|