口・川上がエースとして成長し、
中継ぎでは正津・サムソン・落合英、
抑えの宣銅烈が完全復活した中日は、
チーム防御率十二球団中一位、
さらにオフにはFAで武田(ダイエー)を獲得し、
「ドラゴンズ投手王国」
の完成を目前にしていた。
王国をここまで築きあげたのは、
今年から投手コーチとなった宮田征典コーチ。
ところが、この宮田コーチがオフに
突然の辞意
を表明するんだ。
宮田コーチに何があったかは分らない。
当初は「健康上の理由」としていたが、これに対し球団は
「ならば調子のいいときだけ顔を出し、具合の悪ときは休んでいい。
チームに帯同しなくてもいい」と最大限のVIP待遇を用意して遺留した。
何せ体調が悪いときは休んでいいんだから、
三百六十五日の有給休暇があるのと一緒だよね。
これなら健康上の問題があっても心配ない。
すると、しばらくして宮田コーチは
「今中を再生できなかったのは私の責任。その責任をとって辞任する」
と、
辞任の理由を変更
したんだ。
健康上の理由ってのは間違いで、今中のせいで辞めるんだって。
いったい、宮田コーチに何があったのか?
ひとつ確かなことは、
宮田コーチが翌年、
読売のコーチとしてすぐに現場復帰
した、ということだけだ。(体調悪かったんじゃないの?)
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星野仙一 『ハードプレイハード 勝利への道』 p.64より
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読売の上層部から、「なぜ中日のピッチャーが急によくなったんだ。
なぜ宮田を出した。絶対に奪い返せ!」
という大号令があったのだという。
解任前はピッチングコーチだった宮田コーチを、
今度は原辰徳コーチの「野手総合担当」に並ぶ「投手総合担当」という
ヘッドコーチクラスの肩書と待遇で迎え直すという、
まさに手のひらを返す人事である。
(中略)
さらに首を傾げざるを得ないのが、
そんなことまでして奪い返した宮田コーチに肩書だけを与えて、
実際には一年間、
二軍に置きっぱなしにしたことである。
これは一種の飼い殺しではないのか。
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宮田コーチを引き抜かれた星野監督は、電光石火で次の手を打った。
読売が投手コーチとして招聘しようとして失敗した、
山田久志コーチの招聘だ。
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蔵本英智
(くらもと・ひでのり、1999-)
いつも眠たそうにしているが、
何も考えてなさそうに見えても心の中ではいつも、
「今年はどんなオリジナルデザインTシャツを作ろうかなあ」
と頭をフル回転している。
川添将大
(かわぞえ・まさひろ、1999-2002)
二軍で遠藤一派が手抜き練習で新人に悪影響を及ぼす中、
ひとり黙々と練習をこなす真面目な選手だった。
(でも選手生命は遠藤の方が長かった)
矢口哲朗
(やぐち・てつお、1999-2005)
中日では数少ないイケメン選手。
中日の伝統として入団する選手の多くは中日顔、
たまに間違ってルックスのいい選手が入って来ても「三年で中日顔になる」
と言われる中、矢口は最後までイケメンという珍しい生物である。
新井峰秀
(あらい・たかひで、1999-2000)
登録名・峰秀。韓国語ペラペラで、
サムソンリーの話相手として呼ばれた。
夢は「サムソンさんとバンドを組んで武道館を満員にすること」と、
いろいろ間違っていた。
岸川登俊
(きしかわ・たかとし、1998-1999)
この頃プロ野球界には岸川姓が結構いて、
中日に来たときは「え!あの岸川が!?」と言われたが、
あの岸川じゃなかった。
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