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第二次星野時代

第二次星野政権の誕生 1995年

星野仙一
高 木監督が途中辞任した一九九五年シーズンは、 ドラゴンズは五位に終わった。

 五位といっても首位とは三十二ゲーム差。 当時のセリーグは中日・読売・広島・横浜・ヤクルトの 実質五チーム のペナントだったから、 「五位は最下位と同様」だったんだね。

もう一チームは何処行ったんだ?
中日・読売・広島・横浜・ヤクルト… チーム名は思い出せないが、確かもう一つあった気がする。
黄タイガー
金コアラ たけし軍団と試合をやっていた。


 四年前に「健康上の理由」で辞任した星野監督の現場復帰。 この背景には、ファンから噴き出した「星野監督待望論」と、 高木監督が辞任発表をした六月二日に亡くなった 加藤巳一郎オーナーの遺言があったとも言われている。

シーズン終盤のナゴヤ球場
出て来い星野

 こうしてナゴヤ球場ラスト・イヤーの一九九六年シーズンは、 第二次星野政権で迎えることとなった。

星野監督入団会見2

人物紹介
モンテ
モンテ
(1995)
 来日前、映画 『ミスターベースボール』で日本のことを勉強したと言い放った。

前原博之
前原博之
(まえはら・ひろゆき、1986-1995)
 県岐阜商業出身で 先輩の高木監督にこよなく愛された。

小島弘務
小島弘務
(こじま・ひろむ、1991-1997)
 炭火焼肉屋「ひろむ」の主人。 中日時代は二軍のガキ大将。



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