の年、遅咲きのルーキーが彗星のごとく現れる。
その名を、
「ラジコンおじさん」
と言った。(この頃は「お兄さん」だったかも知れない)
前年のオフにドラゴンズは
ベロビーチでロサンゼルス・ドジャースと合同キャンプを行い、
ラジコンおじさんら若手選手五人を現地に置いてきたんだ。
そうして
捨てられた
修行の旅に出たラジコンおじさんは、アイク生原(いくはら)さんとの出会い、
謎のメキシコ人との出会いにより、スクリュー・ボールを取得、
マイナーリーグでメキメキと頭角を表していく。
そして一九八八年シーズン後半、先発不足に悩んでいた星野監督は、
「アメリカでラジコン好きの左投手が勝ち星を重ねている」
と聞き、
メジャー昇格のプランもあったラジコンおじさんを急遽日本に呼び戻したんだ。
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星野仙一 『ハードプレイハード 勝利への道』 p.54より
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この年、中日は優勝したが、このキャンプは球団に、もう一つの財産をもたらしてくれた。
キャンプに残し、ドジャーズの1A球団に留学させた入団五年目の左腕投手・
山本昌広(現・昌)が急成長を遂げたのである。
スクリューボールを覚えたことをきっかけに、
1Aでなたたく間に十勝を挙げ、防御率もトップ。
モントリオール・エクスポズが獲得にくるほどの注目株に育った。
当時の中山球団社長に、「せっかくのチャンスです。いい話だから
マサ(山本選手)を貸してやりましょう」と言ったのだが、
「何言ってんだ! キャンプに金を遣って、今度はやっと育ったホープを!
気前が良過ぎるのもいい加減にしろよ」
と、ストップがかかって、マサの大リーグ入りは実現しなかった。
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こうして日本に帰ってきたラジコンおじさんは、
優勝争いの中で五勝を挙げ、
ドラゴンズのリーグ優勝に貢献したんだね。
センイチは山本昌のメジャー行きを押していたのか。
日本人選手の海外選出に意外に積極的だったんだな。
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センイチがそんなタマかよ。
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星野仙一 『インターネット熱闘譜』 p.121より
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それにしても、この男をドジャースに譲らなくてつくづくよかったと思っている。
八八年にベロビーチでキャンプを張ったとき、
じっくり育てたい投手の一人として、
この男をドジャース傘下、1Aに残してきた。
正直言うと、それほど期待してドジャースに預けたわけではない。
育ってくれたらもうけものぐらいの考えしかなく、
夏になってドジャースから
「うちにトレードしてくれないか?」
と申し込まれたとき、OKの返事を出そうかと即断したくらいである。
ところが、念のためにビデオを取り寄せてみると、
なんとすばらしいピッチャーになっているではないか。
間違っても球が高めに来ない。
どの球種もひざの辺りに集中して、
めったに長打を打たれないピッチャーになっているではないか。
慌ててドジャースに正式にお断りしたことを覚えている。
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引き留めとるやないか!
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せっかく海外留学させたのに、
戦力になりそうな目途がついた途端に放出なんて、
センイチに限ってあるわけがないだろう。
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アイク生原
(アイク・いくはら)
アイクはアメリカでのニックネームで、純度百パーセントの日本人。
ドジャーズ国際担当で、
アメリカに渡った山本昌の公私に渡る相談相手となった。
ラジコンでも野球でも師匠を持たない山本昌が
“恩人”と呼ぶ数少ない人物。
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