らにこの年のオフは左翼レギュラーの大島康徳もトレードで放出するんだ。
大島といえば二年前にも西武からトレードの打診があって、
「大島は出せない」と言って代わりに田尾を出したほどの看板選手。
でもセンイチに取っちゃそんな二年も昔のことなんか知ったこっちゃない。
ただ、平野や谷沢のときと違い、
大島はセンイチとは割と仲がよかったみたいだ。
「星野は好き嫌いでトレードに出している」と言われたりもするけど、
好き嫌いだけでトレードに出してるわけじゃない、
っていう例
だね。
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星野仙一 『ハードプレイハード 勝利への道』 p.83より
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私と一対一で話し合い、大島には気持ちの整理をきれいにつけてもらいたいと思っていたが、
明日の新聞には日本ハムサイドから、ニュースとなって出てしまう。
大島には寝耳に水のはずだ。
ヤスに、何と言って謝ったらいいのだろう、その気持ちの整理のつかぬまま、
夜、大島の自宅に電話をかけて、電話口のお母さんに、
「明日の朝九時、大事な話がありますので、
私の家に来てください」とだけ伝言した。
「すまん、俺のミスで新聞に先に出る形になってしまった。さびしい思いをさせた」
と詫びて、日本ハム行きの意味を大島に説いた。
貢献した生え抜きの選手については、
その将来を考えるという中日の方針について。
また、自分が中日を出て体験した評論家時代のこと、東京生活のこと。
すべてを大島に語り、ここでいったん、
名古屋を出ることの意義と価値とを説いた。
しかし、クギを刺しておかねばならないこともある。
「俺とおまえの仲でも、将来コーチとして中日に帰れるというようなことは考えるな。
口約束だけでも、と思うのは分る。
気が楽だろうとも思う。
だが、甘くはないんだ。
どだい中日に限らず生え抜きのOBというだけでコーチに迎えてくれる球団なんてないんだ。
一人の野球人として新天地で勉強してきてほしい」
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実際、生え抜きのOBコーチはたくさんいるけど、
それはOBという看板「だけ」でコーチになったわけじゃない、ということだね。
ドラゴンズはタニマチの力が強いからな。
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現役時代にどれだけの功績を残したか、
どれくらいファンに人気があるか、は関係ない。
「どれだけ有力なタニマチを持ってるか」が全てだ。
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そしてセンイチは、加藤オーナーという
最強のタニマチを持っていたというわけだな。
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大島康徳
(おおしま・やすのり、1969-1987)
中村紀の一年目の応援歌が「♪ホームランホームラン紀洋〜」だと聞いて、
「僕の応援歌を使ってくれるなんて嬉しいなあ。そういえば僕とノリって似たとこがあるよね」
とブログで書くような、疑うことを知らない心の純粋な野球人。
仁村薫
(にむら・かおる、1988-1990)
仁村徹のお兄さん。読売を戦力外となり中日にテスト入団した。
中日では闘志はつらつ、ガッツ溢れるプレーでファンを魅了し、
後に西本・柳沢・川相と続く
「読売をクビになったけど中日に来た途端こんな活躍してるぞ、
ワーイワーイ、ザマミロ読売」
の先駆けとなった。
宇野勝
(うの・まさる、1977-1992)
ヘディング事件で一躍全国区のスーパースターに。
愛嬌のあるプレーと愛嬌のある顔で、
「中日顔」の基礎を作った。
大石友好
(おおいし・ともよし、1985-1991)
ルーキー近藤がノーヒットノーランを達成したときの相方キャッチャー。
中尾・中村武志に続く三番手捕手という位置付けだったが、
試合終盤に抑えの郭源治が出てくるとバッテリーごと交代、
「抑えのキャッチャー・大石」と呼ばれた。
岩本好広
(いわもと・よしひろ、1987-1990)
星野監督時代には重要なポジションとされた「乱闘要員」。
広島戦で同じく乱闘要員の長嶋清幸(当時広島)との
「乱闘王決戦」は今でも名勝負数え唄として語り継がれている。
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