方、渦中の人のロッテ・落合の方では何が起きていたか。
前年(一九八六年)の落合の年俸は九千七百万円。
プロ野球史上初の一億円突破は確実だった
(注:後に野村克也氏が「ワシはあのころ既に一億円もらっとった。
球界初の一億円プレーヤーはワシや」と述べている)。
ロッテにしてみれば、
ガムの売上だけでどうやって落合の年俸を捻出すればいいんだ
って感じだよね。
落合の年俸推移(ロッテ時代)
1979年 |
360万 |
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1980年 |
360万 |
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1981年 |
540万 |
初の首位打者 |
1982年 |
1600万 |
三冠王 |
1983年 |
5400万 |
三年連続首位打者 |
1984年 |
5940万 |
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1985年 |
5940万 |
三冠王 |
1986年 |
9700万 |
三冠王 |
1987年 |
? |
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そんなとき、
ロッテ・稲尾監督の退任に絡み
落合の「舌禍事件」
が起こる。
ロッテの球団フロントにとっては落合放出の格好の口実が出来て、
これ幸いとトレードを決定したんだね。
本当、口は禍(わざわい)の元とは言ったもんだよ。
またこの頃の落合は、今よりおしゃべりだったからね。
以下は落合の著書からの抜粋だが、ちょっと長いので
面倒くさかったら読み飛ばしていいよ。
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二行ほどで要約すると、
「ロッテは有藤新体制を作るため、落合と稲尾監督を追い出した」
、という内容だ。
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落合博満 『野球人』 p.78より
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この試合後、私は稲尾監督に呼ばれた。稲尾監督は私の目を見て言った。
「オチ、お前はワンちゃん(王貞治)の年間本塁打五十五本という記録をどう思っている」
「立派な記録ですから、チャンスがあれば僕も挑戦したいと思いますよ」
ここから、稲尾監督はチームに対する自らの展望を話してくれた。
「今年の結果は出てしまったが、俺は、このチームを来シーズンは優勝させたいと本気で考えている。
できれば残りの試合で若手の力を見極めたいから、
主力選手には休んでもらおうと思っているが、おまえには本塁打の記録がかかっている。
残り8試合で今のおまえの調子なら、ワンちゃんの記録を抜くのも夢ではないよな。
記録にかけるか若手にチャンスを譲るか、悪いが考えてもらえないか」
私は即答した。
「いいですよ。明日から休みます。王さんの記録なら来年でも挑戦できるでしょう」
この年のロッテは4位だったが、有藤さんが現役を退いたり、
村田さんをはじめとする投手陣の年齢も上がってきたことで世代交代の時期を迎えていた。
稲尾監督の決意は痛いほど伝わってきたし、考え方にも賛同できた。
私にとっては、記録のことを気にかけてくれただけで十分だった。
翌日の試合から私は欠場した。
(中略)
さて、シーズンを終えた私の興味は、契約更改で球団がどの程度の評価をしてくっるのかということだけだった。
思い通りの評価を与えてもらったら、
球界初の1億円プレーヤーに育ててくれたロッテに対して、
引退するまでバットで恩返ししていこうとさえ考えていた。
そんな時に、新聞紙上に『稲尾、辞任』の文字が踊った。
私には、これが球団からの解任であることは容易に想像できた。
あれだけ来季に展望を持ってた人が自ら職を投げ捨てるわけがない。
そして、ある関係者から次のような真相を聞かされた。
球団は、来季の監督を引退した有藤さんに要請するつもりだった。
稲尾さんの手腕は高いがロッテの出身ではない監督が続いていたので、
ミスター・オリオンズとして貢献してきた生え抜き監督を誕生させたかったようなのだ。
そして、要請する際の条件のひとつに私のトレードがあった。
生え抜きの新監督誕生に伴って、チームのイメージも変えたい。
それには、
ミスター・オリオンズの座を有藤さんから奪った私がいてはまずいということなのだ。
私は、ばかばかしくて言葉も出なかった。
私がいつミスター・オリオンズのになったんだ。
そんなものになりたいと思ったことはないし、
ならせてくれと誰かに頼んだこともない。
本人が掲げていない看板を下ろせと言われても、どうしようもないのだ。
トレードになることを知った私は、
この年のオフに行われた日米野球の移動日である11月4日に、
福岡市内で開かれた『落合博満を励ます会』の席上で記者たちに思いのたけをぶちまけた。
稲尾さんがいないなら、自分もロッテにいる理由はない。
もし、自分と稲尾さんをセットで雇ってくれるチームがあるなら、どこへでもついていく。
こんな内容のことを話したと記憶している。
翌日の新聞を見ると、先にも書いたが、この会に出席していた稲尾さんの
「去年のオフに読売から落合のトレードを申し込まれたが、交換相手が折り合わずに蹴った」
という談話が載っていた。
私は、稲尾さんのこの話を、どこの球団に行ってもやっていけるぞという励ましの言葉と受け取った。
そしてメジャー選抜との試合前に
「自分を一番高く買ってくれる球団と契約したい」と発言した。
メディアは、これを衝撃発言として大騒ぎし、球団も私を刑事罰の被告人扱いして事情聴取すると言ってきた。
この後、私は球団代表の傍らに座って謝罪会見をさせられたり、
球団は「落合はトレードしない」などと発表するのだが、すべては茶番劇で、
私のトレード話は水面下で着々と進められていたのである。
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中日ファンは有藤に感謝せんといかんな。
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ありがとう有藤。
「ミスターオリオンズ」なんて今はもう無い名前のために落合を放出してくれて。
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このロッテのお家騒動により、ドラゴンズ近現代史で重要な役割を担う二人、
星野仙一と落合博満は出会うことになる。
この後、
落合と星野はマスコミレベルで事あるごとに対立したことになっていて、
時は流れて現在、中日ファンを「星野派」「落合派」の二つに割ることになるんだ。
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落合博満
■エピソード・1
・中学時代は四番でエース。全国大会とは縁がなかったが、
全国大会に出るような大人のチームと練習試合をやって、完封試合をやったりしていた。
・高校一年で肩を壊して外野へコンバート。
上昇志向がなく(甲子園とか興味なし)、
先輩のイジメにあったこともあり八回退部。
登校拒否で映画ばかり見ていたが、
試合が近づくと野球部に呼ばれるので学校に行った。
・野球推薦で東洋大に進学。練習で故障し内野にコンバート。
体育会系の上下関係と「やらされてる野球」に嫌気がさしてすぐに中退。
・公園で寝泊まりしたり、自堕落な生活をしばらく過ごしたあと、秋田に戻る。
・兄が支配人をするボウリング場でアルバイト。プロボウラーを目指していたが、
草野球はやっていた。
・二年間そんな生活をしたあと、東芝府中のセレクションを受け臨時工として入社。
初任給は三万五千円。
・社会人四年目、阪神のスカウトが挨拶に来るが、指名されず。
・社会人五年目、全日本のメンバーに選ばれ、森繁和らと世界選手権に出場。
アマ時代の成績は、都市対抗出場三回、全日本代表一回。
・その年、ロッテにドラフト三位指名で入団。
・ロッテで三度の三冠王を獲得。
■エピソード・2
・一九八〇年(二七歳)に最初の結婚。
・一九八一年(二八歳)に離婚。
・一九八二年(二九歳)、ノブタンと交際開始。ノブタンの落合に対する第一印象は「社交性のない子供」。
・初デートに誘ったのは落合の方から。場所はたいていパチンコ屋。
・一度目の三冠王を獲った日、ノブタンに別れ話を切り出され、落合、泣く。
・三冠王を獲ったときの契約更改で、ロッテの最初の提示額は倍増の三千二百万。
・落合はサインしようとしたが、ノブタンに怒られ最終的に五千二百万までアップ。
・一九八四年(三一歳)にノブタンと再婚。
・ノブタンが落合を呼ぶときの呼び名は「落合君」→「ヒロ」→「パパ」。
落合君がノブタンを呼ぶときは「おっかあ」。
・一九八四年、世田谷に自宅購入。月々百五十万返済の十八年ローン。
・一九八五年(三二歳)、ノブタンがプチ家出。帰ってきたノブタンに
「おめえがいなくなったら、犬たちのご飯はどうなるだ!?」と、落合君、泣く。
・落合君の当時の好きなものは「豆腐、ゆで卵、カマボコ、麺類」、
嫌いなものは「魚、野菜」。(その後、ノブタンに矯正される)
・落合君、遠征先の大阪でノブタンが荷物に入れた茶色のYシャツと茶色のズボンを見て動転、
自宅に電話をかけて「おっかあ、こんなネクラな格好じゃ、オレ、
恥ずかしくて大阪の街を歩けねえだ!」と激昂。ファッションにうるさいところを見せる。
・落合君、その後、「おっかあ、オレな、こんどは赤いズボンとかそういうのがいいだ」と衝撃発言。
・落合君、実はヘビ年のO型。
・夫婦喧嘩でノブタンが新築の家にブランデーを叩きつけたことにキレた落合君、
「お前がこれだけ暴れるなら、ようしっ!俺は、この家に火をつけるぞ!本当だぞ!」
と激昂。落合君のあまりのマジ顔に、ノブタン、
「ヘビ年のO型男は怒らせてはいけない」と反省する。
・落合君、ワイドショーを見ながら「おっかあ、夫婦ってのはな、夜の生活がうまく行ってなかったら別れるもんだ」
とえらそうなことを言い、ノブタンに「あんた、私が出て行ったら“昼は三冠王、夜は三振王”と言われるのよ。
もっと努力しなさい」とたしなめられる。
稲尾和久
(いなお・かずひさ)
一九八四〜八六年ロッテの監督。試合後には落合と酒を飲みながら野球談議するなど、
珍しい“落合と気の合う監督”だった。
有藤道世
(ありとう・みちよ)
ロッテ初の生え抜き二千本安打達成者。
一九八七年からロッテ監督。
近鉄対ロッテの「伝説の十・一九」で、
空気の読めない試合引き延ばしで
近鉄の優勝を阻止したことで一躍悪のヒーローになる。
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