ラゴンズは二年連続の五位っていう、
最近の中日ファンから見ればおとぎ話みたいな順位
で終え、
立て直しの切り札として≪燃える男≫星野仙一を新監督に抜擢したんだ。
センイチは現役時代から
「打倒・読売!」
を前面に出す闘志むき出しのキャラクターで、
ナゴヤのファンに絶大な人気を誇っていた。
でも監督としての能力は未知数。
球団フロントとしては、
「チームが弱いなら、せめて人気監督で客離れを防ごう」
って思惑はあったろうね。
二年連続五位だからな。今なら一揆や打ちこわしが起きるような順位だ。
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中日が二年連続Bクラスになったのは一九八六年が最後。
ここでは、以降の歴史を「近現代」と呼ぶことにする。
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ところが!
「人気で選ばれた」と思われていた星野監督だけど、
客寄せパンダかと思いきや、
積極的なアクションでドラゴンズを次々と改革していくんだ。
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星野仙一 『ハードプレイハード 勝利への道』 p.55より
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中日の監督として名古屋に帰ることになったとき、
球団社長に一番最初に話したことが、全国的に見た場合の、
中日のプロ球団としての立ち遅れだった。
当時の名古屋は、各種スポーツ施設が少ない上に、老朽化していた。
ドラゴンズにおいてもいろいろな面で読売や西武の進んだ環境整備に比べて遅れているということを、
さまざまに具体例を挙げて説明した。
名古屋を出て武者修行した私の土産話のつもりだった。
まず老朽化した狭い屋内練習場の建て替えを願い出た。
五人の投手が一度に投球練習のできる広さが最低限必要だった。
続いて一年後の一九九八(昭和六十三)年のオフに、
新しい合宿所が完成した。
選手全員に個室を完備、サウナあり、BSテレビ放送の受信装置も各室につけた。
当時、衛星放送はまだ一般的ではなかったが、
大リーグの試合を見せるためには必要な投資だった。
その間に、前述したベロビーチでのキャンプを敢行したから、
中山球団社長には、顔を合わせるたびに、
「おい、星野君、今日は金のかかる話じゃないだろうな。
もう、球団の金庫はすっからかんなんだからな」
とからかわれる始末だった。
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- 練習施設の充実
- メジャーとの合同キャンプ
- 米マイナーリーグへの若手選手派遣
- 積極的なトレード
- 監督主導型のドラフト戦略
- 反乱分子の粛清
- 鉄拳制裁に代表される精神野球導入
- マスコミを味方に取り入れる
生え抜きの主力選手を容赦なくトレードで放出し、
練習場を改築して選手に最適な環境を与え、
海外キャンプを導入しメジャーとのパイプを作り、
若手をどんどんアメリカ野球に遠征させて鍛え上げた。
でも、監督として何の実績も一年目の新人監督が、
どうして球団のお金をこんなに湯水のように使うことが出来たんだろう?
それは、星野監督が
オーナーのお気に入り
だったからなんだ。
ドラゴンズの歴代オーナー・球団社長・監督(1987-2008)
ドラゴンズ十代目オーナー・加藤巳一郎。
この加藤オーナーが星野仙一という人間に
ZOKKON命(ラブ)
に惚れこんでいて、
星野監督が欲しいと言ったものはすべて与えた。
星野監督のやりたいようにさせた。
こうして一年目から
全権監督
となった星野監督は、
チームのすべてに発言力を持ち、
すべてを星野色に染めていったんだ。
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監督とオーナー・フロントが仲がいいのは当たり前じゃないのか?
ここが仲が悪いとチームが成り立たないだろう。
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いま古田の悪口を言ったのはお前か。
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杉本正
(すぎもと・ただし、1985-1990)
一九八七年には前半戦だけで十二勝を挙げ、
やはり前半十二勝の小松と共に中日ファンに束の間の夢を与えてくれた左のエース。
近藤真一
(こんどう・しんいち、1987-1994)
デビュー戦で史上初の初登板・初先発・ノーヒットノーランを達成。
相手が読売ということもありこの一試合だけで中日ファンのハートをがっちりキャッチ、
現在の地位を築いた。
山崎武司
(やまさき・たけし、1987-2002)
入団当時はキャッチャーだったが。
公式戦で広島の正田に一試合五盗塁されて捕手を断念した。
長谷部裕
(はせべ・ゆたか、1987-1998)
かつてはナゴヤ球場ブルペンのイケメン・リーダー。
後継を藤井優志に託し、
今はナゴヤドームのブルペンでイケメン・リーダーをしている。
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