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七月十五日(水)●阪神―○中日 の日、阪神に〇.〇〇〇〇〇一パーセント残されていた“優勝の可能性”が、ゼロになった。 阪神が あの大物メジャーリーガー・メンチ の来季構想外を決定、 以降は二軍でも使わず、飼い殺しを宣告して自主退団を待つという判断を下したのである(!)。 ケビン・メンチ。 メジャー七年間で打率二割六分九厘、八十九本塁打、三百三十打点。 二〇〇六年には右打者の メジャー記録 となる七試合連続本塁打をマークした。 日本にやってきた久々の“現役バリバリ”の本物のメジャーリーガーである。
〜 来日当時の記事 〜
いいヤツっぽいぞ、メンチ。 阪神球団が提示した二年契約を「プロは一年一年が勝負」と単年契約を申し入れ、 熱心に日本語を勉強し、日本文化に溶け込み、チームメイトに溶け込み、 真面目で明るく、前向きな性格のメンチ。メジャーリーガーだからといって日本を小馬鹿にするようなところもなく、 懸命に日本に馴染もうとする。 そういえば中日・森コーチが言っていた。 「(ドミニカ視察で)ブランコより飛ばす外国人は他にも何人かいた。その中でブランコを選んだのは、 あいつが一番真面目だったからだよ」 ☆ ☆ ☆ ☆
しかし、ペナントに入ると日本人投手の馴れない変化球攻めに苦しむメンチ。 しかしこれも外国人打者なら誰もがくぐる関門。 開幕から三週間もすると、 「ようやく日本人投手の攻め方が分かって来たぜ」 と、日本式野球に手応えを掴み始めた。 眠れる虎が目覚めつつあった。 しかし、阪神首脳陣は メンチが「ようやく日本人投手の攻め方が分かって来たぜ」の 「ようや…」を言いかけたところで 開幕からわずか十三試合 でメンチに見切りをつけて(メンチだけに)、二軍に落としてしまったのである。 目覚めかけた虎に強力麻酔。 この時点でのメンチの成績は打率一割六分六厘、本塁打ゼロだった。 (余談だが、同じく“眠れる竜”中日・ブランコの開幕十三試合の時点での成績は、 打率二割二分四厘、本塁打二本だった)
開幕十三試合でのメンチ・ブランコの成績
「日本人投手の攻め方が分かって来た」というメンチの言葉にウソはなく、 変化球攻めに適応したメンチはウエスタンで大活躍、 さすがのメジャーリーガー振りを見せつけ、 五月中旬に再び一軍に昇格する。 しかし阪神首脳陣は、 今度は わずか二試合ノーヒットだっただけで「やっぱりダメやん」と再び見切り を付けメンチを二軍降格、 何とも辛抱のないことで、 その後メンチは二度と一軍に上がってくることはなかった。 七月十三日現在、メンチのウエスタンでの打率は三割四分四厘、本塁打三本と相変わらず好調だが、 猫に小判、豚に真珠、阪神にメンチ。 メンチの凄さが分からない阪神首脳陣は、 この超巨大爆撃砲に一度も火を点火しないまま、 ついに構想外を決定したのだ。
こうして “眠れるメジャーリーガー”メンチ は阪神に睡眠剤を投与されたまま、帰国することになった。 さあ!今日は(中日選手による)メンチの弔い合戦だ! もっとメジャーリーガーと戦いたかった。メジャーの本気のプレーを見たかった。 俺たちはメンチと対戦するのをずっと心待ちにしてたのに! そんなみんなの思いを踏みにじった阪神は、懲らしめなくちゃいけない。
こうして、ものごとの正しい道を説きながら各地を巡るドラゴンズは、 甲子園で阪神首脳陣に、 「四月に阪神が打てなかった、勝てなかったのはメンチのせいじゃないですよ。 その証拠に、メンチがいなくなっても阪神は打てないし、勝てないじゃないですか」 ということを試合を通じて教えたのだった。 |
小笠原孝 (おがさわら・たかし) 和田一浩 (わだ・かずひろ) 英智 (ひでのり) 河原純一 (かわはら・じゅんいち) 浅尾拓也 (あさお・たくや) 森野将彦 (もりの・まさひこ) ネルソン |