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--入団当時の紹介記事

画像 [名前]田中大輔 [誕生日]1984年12月18日 [ニックネーム]ダイスケ [好きな食べ物]白米 [好きなタレント]長谷川京子 [好きな野球選手]谷繁元信

“ポスト谷繁”肩の強さは一級品

 あこがれの捕手に“弟子入り”を志願した。東洋大・田中は、谷繁が不動の正捕手として君臨する中日に ドラフト希望枠で入団することを決意。 「谷繁さんのような選手になりたいです。ベテランだけど、若手に負けない肩の強さ、機敏な動きが好き。 いつかは勝ちたい」。 生きた教材がいるからこそ、あえて厳しい環境に身を投げ込んだ。
 百七十四センチ、七十六キロ。決して上背がある方ではない。 ただ、これまでの鍛錬と努力により、小柄な体格を補うだけの“武器”を蓄えてきた。地肩の強さとスピードが、それだ。
 「これまで意識して、肩の強さ、スローイングの速さを伸ばしてきた。これをプロでも続けていきたい。 体は小さいけど、今は不利とは思ってません」
 仁村スカウトが「とにかく地肩が強い。今の大学球界ではずば抜けている」と舌を巻く右肩での遠投は推定百十メートル。 捕手としてスローイングのスピードを上げるため、捕っては投げ、捕っては投げの練習をひたすら繰り返した。 今では谷繁に対抗できるまでの速さになった。
 東都リーグでは、大学三年春に打率三割七分一厘でベストナインを受賞。課題だった打撃面も向上したことで、 将来のプロ入りを視野にとらえた。 四年になるとチームの主将を務め、人望も厚いことから、東洋大・高橋昭雄監督は 「プロだけが野球じゃない。卒業したら、オレの元で助監督をやらないか。いずれは監督だ」 と次期監督に勧誘。しかし、田中は指導者への道を固辞してプロ野球選手になることを選んだ。
 「人間的にも認めてもらえたことは、ありがたかったし、うれしかった。 でも、ぼくはまだまだ選手として野球をやりたかったんです」
 大学四年間で、一度もリーグ優勝を経験していない。頂点に立つ感激を知らない心残りが、 常勝軍団・落合ドラゴンズの門をたたかせた理由でもある。
 「勝てなきゃ一流じゃない。とにかく勝てるキャッチャーになりたい。 岩瀬さんのスライダーを受けてみたいです。あのスピードと角度で曲がる“魔球”を捕ってみたい」。 この夢が現実となったとき、真の“ポスト谷繁”が誕生する。

画像 [名前]浅尾拓也 [誕生日]1984年10月22日 [ニックネーム]なし [好きな食べ物]すし [好きなタレント]特になし [好きな野球選手]金本(阪神)

まだまだ伸び盛り百五十二キロ右腕

 小顔でスラリとした体格。髪もオシャレに襟足が伸びている。 竜スカウト陣がほれ込んだ愛知県下部リーグの百五十二キロ右腕は、まるで野球選手に見えない。
 「早くプロに通じる体を作らないといけませんね。僕は胃下垂なんで食べても太らないんですけど…。 一日三食とか決めずに、食べられるときに食べないと」。 秋のリーグ戦時は、身長百八十二センチ、体重七十一キロ。 ドラフト直前の緊張感で食が細り、一時は六十七キロまで落ちた。
 スカウトからも“太れ指令”が出ている。もちろん自分でも自覚している。 「体が大きくなれば球も重くなるだろうし、故障にも強くなると思います」。 目標は七十六キロに設定した。好物はすしであっさりもの好き。 かつて焼き肉は表面の脂をティッシュでふき取らないと食べられなかったほど脂モノが苦手だが、 体重アップのためには、そんなこと言ってられない。 今後はなりふり構わず、口に入れる。
 唯一、野球推薦の話があって飛び込んだ日本福祉大だが、もともと福祉系の仕事を希望していた。 「子どもとか、お年寄りとかを虐待するなんてひどいと思った」。 大学生らしくバイトもした。 スーパー銭湯での食堂での調理に始まり、パチンコ屋の店員、深夜の中部国際空港で清掃をしたこともある。 オフの時は、カラオケやビリヤードなどで遊び、 寮の門限や規律が厳しい名門大学の野球部員とは一風変わった生活を送っていた。
 だが百四十キロ台後半の速球が出るようになった大学三年時、 プロのスカウトが視察に訪れるようになった。 当時は愛知大学リーグ二部。遠い夢の世界だったプロが、手の届くところに来ていた。 入学時から取得したかったホームヘルパーの資格は、野球と両立できずあきらめた。野球一本で勝負する決意をした。
 名門校ではないためトレーニング環境は乏しかったが、キャンパスの周りの山道や美浜の海岸を走りこみ、 四年秋には最速百五十二キロをマークするまで成長した。ドラフトでは念願の竜から指名。 甲子園も、大学の一部リーグでもプレーしたことのない青年が、野球界の頂点へ挑戦する。

画像 [名前]菊地正法 [誕生日]1984年9月9日 [ニックネーム]なし [好きな食べ物]カレー [好きなタレント]若槻千夏 [好きな野球選手]杉内(ソフトバンク)

努力で悲運乗り越えた職人左腕

 一度は大好きな野球を奪われた。 二年前の春、菊地は三菱自動車岡崎に入社し、二年目を迎えていた。 チームはこれまで何人ものプロ入りを輩出してきた名門。 静岡・富士宮東では県八強が最高だった菊地だが、 次第に登板機会が増えていった。このままいけばプロへいけるかも知れない----。しかし悲劇が待ち受けていた。
 福井遠征中、宿舎で何げなくつけたテレビから信じられない映像が流れた。 「上空からの映像で、自分たちの工場が映っていたんです。まさかテレビで知ることになるとは…」。 本社が度重なる不祥事で販売不振に陥り、菊地の職場である岡崎工場が閉鎖されることを伝えるニュースだった。
 数日後、野球部長から告げられたのは活動自粛。 自分ではどうにも出来ないことで、野球を取り上げられた。 半日だった勤務時間はフルタイムになり、リコール処理に追われた工場のラインに入った。 これまでは書類整理が主だったが、活動していない野球部員は容赦なく現場に入れられた。 「車のインパネと呼ばれる部分の取り付けをやってました。 昔はケガするからやらされなかったんですけどね。 ただ自分はまだ若かったので、移籍のチャンスがあった。 ずっとそれにかけてました」。 一日の業務が終わる午後六時から、同じく移籍を目指すチームメート五、六人と、 暗闇の中で自主トレをした。日々の肉体労働で体はきつかったが、プロへの夢は捨てなかった。
 半年後、念願かなって東邦ガスへ移籍すると、水を得た魚のようにすぐエースの座をつかみ、 〇五年の都市対抗、〇六年の日本選手権出場を果たした。
 回り道もしたが、念願かなってドラフト指名。次の目標は先発ローテ入りだ。 「自分はエリートじゃないけど、プレッシャーもない。これからも自分の努力次第です」と、 意欲満々。たたき上げで職人顔の左腕が、プロの世界に殴りこみをかける。

画像 [名前]岩崎達郎 [誕生日]1984年12月28日 [ニックネーム]タツ [好きな食べ物]納豆 [好きなタレント]香里奈 [好きな野球選手]井端弘和

守備と足なら今すぐプロで通用

 プロへの道は携帯電話が知らせてくれた。岩崎達郎内野手が中日からの指名を知ったのは、 日本選手権で大阪遠征中に後輩が見ていた携帯のサイトだった。
 「うそだと思ったんですけど、後輩に見せられてアッと驚きました」
 岩崎にとっては驚きだったが、三巡目浅尾、四巡目菊地と思い通りの指名ができた中日が満を持して指名をした。 「アピールポイントは守備と足(五十メートル五秒九)です」と本人が自信を持っているものを、 中日もしっかりと評価していた。
 中田スカウト部長は 「(現在の)セカンドに加え、ショートも出来る。スローイングの正確さを評価しています。 両方やれる力がある。目標は井端だそうだが、彼の大学時代のときに印象が重なる。将来は内野の要として期待している」 と岩崎の素質を高く評価した。 新日本石油ENEOSの大久保秀昭監督も「守備と足は今すぐプロで通用します」と話す。
 その井端を岩崎は理想の選手として挙げている。 「井端さんのプレーやバッティングは、自分がこういう選手になりいと目指している理想です」。 守備範囲が広い、走者を進める右打ちがうまい。技ありの渋いプレーを求めている。 小さいときも川相(現コーチ)のファンで、まねをしてバント練習をしていたという。 「何かがずばぬけていればいいかなと思っていました」と、 早くから自分のどこを伸ばせばいいかを考えながら野球をやってきた。
 少年野球でいとこがアナウンスされて登場する姿にあこがれ、 小学一年から野球を始めた。それから野球一筋、瀬谷シニア時代に冠大会で優勝したことはあるが、 中学、高校と大きな公式大会で優勝経験はない。社会人で強豪新日本石油NEOSに入り、都市対抗、 日本選手権と出場し、プロへの道が開けた。
 荒木二十九歳、井端三十一歳の二遊間コンビは円熟期。 なかなかスキはないが、後継者を育てなければいけない時期にきている。 安定した守備はいきなりでも魅力がある。 「センターラインの強いチームは優勝できますよね」と岩崎。 その中に入って、強いドラゴンズを継承していく役目を期待されている。

画像 [名前]清水昭信 [誕生日]1983年10月26日 [ニックネーム]しみちゃん [好きな食べ物]松阪牛 [好きなタレント]特になし [好きな野球選手]川上憲伸

マックス百五十キロのパワー投手

 今年秋の愛知大学リーグ一、二部入れ替え戦、名城大の清水昭信投手は敗れて二部降格の悔しさを味わった。 勝って昇格した日本福祉大のエースは浅尾拓也。ライバルだった相手が、ドラフトによってチームメートになってしまった。 おまけに七巡目の西川は三重高時代の一年後輩だ。
 「なじみがある人がいると心強い。お互いに切磋琢磨していけばいいんじゃないですか」。 驚きと親近感とライバル心。少しでも不安なくプロの道に進めることだけは確かだ。
 小学五年で野球を始めてから本職は投手。中学、高校と大きな大会での優勝はなかったが、 大学四年になって春のリーグ戦で優勝、全日本大学選手権に出場した。 三年秋のリーグ戦では百五十キロもマーク。 速球派のエースとして評価されている。中日にも同じタイプとして、川上といういいお手本がいる。
 「パワータイプですけど、これから技術も勉強したい。 川上さんや岡本さんはパワーがあると思います。機会があったら聞きたいですけど、まずは見て盗んで、 肌で感じたい。先発を狙っていきたいです」
 清水の野球人生はいいことばかりではなかった。 高校卒業時に苦しみを味わった。スポーツ推薦での大学進学の夢がかなわず、大リーグ・パドレスの入団テストを受けた。 しかし、米国での最終選考で不合格となり、いったんは野球をあきらめ、一般企業に就職した。
 だが、野球への思いは捨てきれずに三ヶ月で退社。 朝は新聞配達、夜は郵便配達をしながら、練習と受験勉強に励んで、見事名城大への進学を決めた。 好きな野球をできる喜びにあふれた大学四年間、大学からグラウンドまで往復二十キロをランニングし、 厳しい練習も楽しんで取り組んだ。エースの座をつかみ、そして念願のプロになることができた。
 「寮がないので下宿で自炊しています。結構なんでも料理は作れます」と、器用な腕を持っている。 寮に入れるプロではしばらく食事の心配はいらない。 太い右腕から繰り出される速球で、相手チームを、選手を料理する。雑草魂で、中日投手陣の将来を支える。

画像 [名前]西川明 [誕生日]1984年4月2日 [ニックネーム]アキラ、主任 [好きな食べ物]甘栗 [好きなタレント]奥名恵 [好きな野球選手]高橋由伸

走攻守そろい内外野どこでも

 G党からG倒へ。法大・西川明内野手が華麗な転身を果たす。 「読売は好きだけど、野球をやるなら機動力も生かせる中日。 読売と対戦するのが今から楽しみです」。大きな夢を抱いてプロの世界に飛び込む。
 走攻守そろった万能性が売り。内外野を守れる強みで、法大では一年秋からレギュラーの座をつかんだ。 中学三年の時に砲丸投げで三重県大会二位に輝いたほど肩が強く、足も速い。 遠投百二十メートル、五十メートル六秒二を誇る。 これに打撃力が徐々に加わり、三年秋と四年春にはベストナインを獲得した。
 法大・金光興二監督は「体は大きくないがパンチ力はある。二、三塁、場合によっては外野も守れるし、 それぞれ器用にこなす。どのポジションでも自分なりにやっていくセンスがあるので、 プロでも十分にやっていけると思う」と話す。そのセンスに、中日が目をつけた。 「何でも器用にこなせるユーティリティーなところがいい。現場は使いやすいのではないか」 とは豊田スカウト。ドラフトはしんがりでの指名だが、即戦力としての期待は大きい。
 三重県出身ながら、根っからの読売ファン。小学校三年で野球を始めたときから、 実家のテレビに映し出されていた読売戦の中継にかじりついていた。 当時は、桑田真澄の全盛期。同級生のドラゴンズ談義には何の興味も示さなかった西川少年が、 読売エースの投球術には魅了された。
 学生時代は、同じ東京六大学出身の高橋由伸(慶大卒)にあこがれ、 柔軟性とパンチ力を兼ね備えた高橋由の打撃フォームを参考にした。 「打撃には自信があります。当てに行って打ち取られるのが嫌いで、自分のスイングをしようと、 カウント追い込まれるまではフルスイングを心がけています」。 力いっぱいのフルスイングを、読売戦で披露する日を今から心待ちにしている。
 「まずは厳しい練習についていく体をつくりたい。そして、監督が使いやすい選手になりたいですね」 と西川。落合野球の申し子となる可能性は十分に秘めている。

画像 [名前]堂上直倫 [誕生日]1988年9月23日 [ニックネーム]ナオ [好きな食べ物]モンブラン [好きなタレント]深田恭子 [好きな野球選手]堂上剛裕

将来の夢は兄弟スタメン

 堂上家の運命に導かれたように、交渉権が中日に渡った。 阪神、読売を含めた三球団が競合した高校生ドラフトで、中日が早くから獲得悲願だった愛工大名電・堂上直倫をゲットした。
 「決まった瞬間は、父と兄の顔を思い出しました。やっぱりお兄ちゃんと一緒にやれるのがうれしいです」。 八十年代に投手として活躍し、現中日合宿所「昇竜館」館長の父・照さん、 入団三年目で、二軍で奮闘中の兄・剛裕に続き、堂上家から三人目の竜選手が誕生した。
 入団前の評価に関していえば、ともに六番目で指名された父、兄を大きくしのぐ、ピカピカの一巡目指名だ。 高校通算五十五本塁打。「走・攻・守」三拍子そろった抜群の野球センスを持ち、野手では高校ナンバーワン評価だった。 愛工大名電で三年間、堂上の成長を見守ってきた倉野光生監督は、こう評価する。 「何より驚かされたのは、勝負強さ。一年秋に四番に座らせてから、ことごとくチャンスで打つ。 僕が見てきた高校生でこれほど勝負強い選手は見たことない」。 二年春のセンバツ決勝では本塁打、二年夏の愛知大会決勝でもナゴヤドームにアーチをかけた。 コーチ時代からイチロー(マリナーズ)、山崎武司(楽天)など数々の打者を見てきた倉野監督も太鼓判を押す勝負強さなのだ。
 さらにスター性まで兼ね備えている。 中学三年時、中日ファン感謝デーで、リトルシニアリーグ東海選抜の一員として親善マッチに出場し、 投手を務めた福留からナゴヤドームの左翼席に弾丸アーチを放った。 中日ファンの中ではすでに語り草。この時からドラフトでの運命は、約束されていたのかもしれない。
 十八歳になったばかりの若者にかかる期待は相当のもの。 しかし、本人はプレッシャーなどみじんも感じさせず、プロでの目標をでっかく持った。 「三冠王をとってみたいです。何でも一番っていうのがいいですね」、 史上七人しか達成していない三冠王への挑戦。 これまで以上に激しい競争にさらされるプロで生き抜く、あえて困難な目標を掲げた。 将来の夢は兄弟でスタメンに名を連ねること。 竜の未来を担うスターが今、誕生した。

画像 [名前]福田永将 [誕生日]1988年7月23日 [ニックネーム]ノブ [好きな食べ物]カレーライス [好きなタレント]特になし [好きな野球選手]古田敦也

高校通算四十九発、打てる捕手

 例年にない盛り上がりを見せた今夏の甲子園。 福田永将捕手率いる優勝候補・横浜は持ちうる力をすべて出し切ることなく初戦で姿を消した。 だが、この敗戦が竜と福田の運命を決定づけるものとなった。 九月二十七日に福田のもとに訪れた石井昭男スカウトは 「三巡目まで残る選手ではない。夏の甲子園で初戦敗退したのがうちにとってはラッキーだった。 捕手強化はうちにとっては急務。だが、福田君がいるから昨年は高校生捕手の指名を見送ったほどだ」 と喜びをあらわにした。
 目標はズバリ「打てる捕手」。春のセンバツ優勝捕手にして高校通算四十九本塁打のスラッガー。 「打撃は飛距離に自信がある。落合監督に飛ばす技術について聞いてみたい」と目を輝かせた。 これまで何人もの教え子を球界に送り込んできた同校野球部の小倉部長も 「飛ばすことに関しては高校時代の多村(横浜)より断然上」 と太鼓判を押す。一年夏には西武の涌井とバッテリーを組み、甲子園ベスト八。 最上級生になってからは主将としてチームをけん引し、阪神に同じく三巡目指名された智弁和歌山の橋本と並んで “西の橋本、東の福田”と言わしめるまでになった。
 “ハマっ子”の福田だが、ドラろとは何かと縁が深い。母・啓子さん(47)は愛知県豊明市出身。 「小学生の時は夏休みによく遊びに行った。(愛知には)いとこも住んでるし、 なじみはあります」と福田。はたまた一巡目の堂上とは中学時代からの知り合いだ。 「堂上は中学時代に対戦した相手の中で、一番すごい打者。ポジションが違うのでそこまで意識しないが、 互いに競い合えれば良いと思う」とエールを送る。
 中日では不動の正捕手・谷繁が現在三十五歳。他球団を見渡してもヤクルト古田が四十一歳、 阪神矢野が三十七歳と各球団とも若手捕手の育成が課題となっている。 その成否が数年後のペナントレースを左右すると言っても過言ではない状況だ。 「早く一軍で試合に出たい。川上投手の気持ちのこもった球を受けてみたい」。 現在は後輩の練習に交じって、体力づくりに励む毎日。 だが、福田の願いが現実となったとき、ドラゴンズに新時代が訪れる。

『月刊ドラゴンズ』(二〇〇七年一月号、二〇〇六年十一月号)より