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[名前]中田賢一
[誕生日]1982年5月11日
[ニックネーム]ケン
[好きな食べ物]ラーメン、スパゲティなど、めん類
[好きなタレント]お笑い芸人全般
[好きな野球選手]高津臣吾投手(ホワイトソックス)
マウンドでは強気で頑固
人に優しく、自分に厳しく。北九州大・中田賢一投手には、こんな言葉が似合う。
四年間通ったキャンパス近くの食堂「星乃」の梅野夫妻は「とても後輩の面倒見がいいんですよ」と口をそろえる。
チームメートは「ふだんは人見知りをするほど、優しいヤツ。最近やっと取材も上手に受けられるようになったんです」
と言う。それがマウンド上では、頑固でわがままな男にひょう変する。
できれば三振でアウトの山を築きたいと、投手の本能が首をもたげる。
学生時代は、毎試合のようにバットをへし折る快投を続けてきた。
今年七月、ともに日米大学野球選手権の大学ジャパンに選ばれた一場が楽天に入団する。
その話を向けられると、「一場君は『勝てる』投手。でも、彼が活躍したら負けん気が出るでしょうね。
自分は未完成の投手ですが、球速だっていけるところまで上げていきたいし、守るに入るつもりはありません」。
プロで対戦したい打者を聞いても、
「一番から九番まで絶対に打たれたくない。四番に打たれても、九番に打たれても失点は失点ですから。
相手に威圧感を与えたい。投球の技術も大事だけど、プロではそういう事も大事。
マウンドに上がったときは、強気で行く」。
気持ちいいほどに、プロ向きなのだ。
マックス百五十キロを誇る右腕は、得意のフォーク、カーブにチェンジアップなど、変化球も多彩。
厳しい世界であることは十分に分っているが、目標は高い。
「自分としては先発でいけたらいいと思う。まず開幕一軍を目標にして、早く登板したい。
ビールかけをするようなときまで投げていられたら…。いずれは百五十五キロくらいは出したい」。
一年目の勝ち星は五勝としているが、それはあくまで最低ラインだ。
“社会人で野球を続けられれば…”。そんな思いで大学に入った四年前。
職業として野球を続ける喜びを感じながら中田はプロのマウンドに立つことになる。
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[名前]川井進
[誕生日]1980年6月17日
[ニックネーム]カワイ
[好きな食べ物]焼き肉
[好きなタレント]伊東美咲
[好きな野球選手]今中(元中日)、工藤(読売)
緩急自在社会人一の左腕
指名こそ四巡目(チーム三番目)だったが、評価は自由獲得枠と同レベル。
入団交渉で球団から提示されたのは、満額の契約金一億円(出来高五千万円)、年俸千五百万円。
社会人屈指の左腕、川井進投手に注がれる期待は大きい。それだけに、
最後の最後まで安心できなかった。
ドラフト直前まで、西武が熱烈アプローチ。「中日一本」の姿勢を貫いた川井だったが、
西武の強行指名という大どんでん返しの可能性も十分にあった。
だから、中日からの指名が決まると「ホッとしました。そしてうれしかった」と最高の笑顔を見せた。
社会人二年目の今季の急成長で、プロから注目される存在となった。
その、最大の要因は、「緩急」。
縦に割れる百キロ台のカーブにを手に入れ、百四十キロ台のストレートとの約四十キロの速球差で、
打者を幻惑する。
この“変身”の裏には「自分に夢を持たせてくれた方です」という、
あこがれのサウスポーの存在があった。中日のエースとして活躍した今中慎二氏だ。
細身の川井は、同じくスマートな体形ながらも打者を手玉に取った、
今中氏の投球スタイルに注目。伝家の宝刀・カーブの習得に乗り出し、決め球とした。
同時に、チームトレーナーの指示を仰ぎ、今年一年間で五キロ近くの体重増に成功。
プロの世界でも耐えられる、ヨロイを身にまとった。
そして川井の一番の武器は、そのハート。長野・上田西高では甲子園とは無縁、
大東文化大時代は首都リーグで二部落ちも経験。
決して野球エリートではなかった。
「ボクは、下から上がってきましたから。雑草魂というか、そういう気持ちでいきたいですね」。
日の当たる場所を歩んできた、同じ“松坂世代”のライバルに、強烈な対抗心を燃やす。
心・技・体を兼ね備えた逸材は、あこがれのプロの世界に飛び込む。今季の目標は「新人王」だ。
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[名前]鈴木義広
[誕生日]1983年1月5日、香川県満濃町生まれの21歳
[ニックネーム]ヨックン
[好きな食べ物]野菜全般
[好きなタレント]石川亜沙美
[好きな野球選手]斎藤雅樹(読売)
柔らかい黄金の手首が武器
地元・中部大(愛知県春日井市)から初めてとなるプロ野球選手が誕生した。
ドラフト五巡目指名の鈴木義広投手だ。
「サイドスローだとは思っていないんです。自分の中ではこの投げ方が“本格派”なんです」
身長百八十八センチの恵まれた体を駆使した独特の横手投げからの変則フォームに、強いこだわりを持っている。
愛知大学リーグでは一年から登板。二年春にはエース格になった。
最速百四十九キロを誇り、球の力は十分。プロの厳しい練習でさらに磨きをかければ、大化けするかも知れないスケール感が売りだ。
大学に入って飛躍的に力をつけた。入学当初は体重七十キロそこそこで、ひ弱なイメージがあったが、自主性を重んじるリベラルな雰囲気の中、
ウェートトレなどで十五キロ増量。身長も四、五センチ伸びた。
「とにかく野球に集中できる環境でした。仲間にも恵まれました」と鈴木。
チームの大黒柱としてフル回転したが、三年秋と四年春のリーグ戦では続けて五位に。
一部残留を懸けた入れ替え戦に回るなど、苦しい試合で投げたこともある。
「絶対に負けられない緊張感がありました」。いずれの経験もプロに入って財産になるだろう。
大きな体だが、柔らかさも兼ね備えている。
右手首の関節の可動範囲が大きく、手のひらが腕につくほどなのだ。
高校時代から続けていた柔軟トレのたまもの。
子どものころから診てもらっていた整体師の先生から
「野球をやる上でプラスだから」と勧められ、入浴時に実践。
最初は普通の人と同じように九十度しか曲がらなかったが、
親指、人さし指、中指と一本ずつ“攻略”していった。
今季で引退した西武・潮崎も同様に柔らかく、魔球・シンカーを自在に操った。
黄金の手首。ルーキーにとって強い武器になるかも知れない。
「自分に限界を見つけずに必死に練習するだけです」。
即戦力を期待されているが上積みの余白も十分。大志を抱いて落合中日に加わる。
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[名前]石井裕也
[誕生日]1981年7月4日
[ニックネーム]ユウヤ
[好きな食べ物]焼き肉
[好きなタレント]上原多香子
[好きな野球選手]石井一久(ドジャース)
まず五勝、清原さんから三振を
サッカー、バレーボール、バスケットボールと、スポーツは何でもOK。
小学生のとき、スケートボードを乗り回して転倒、顔を切ったこともある。
そんなやんちゃな少年だった三菱重工横浜硬式野球クラブの石井裕也投手。
一番性に合ったスポーツは野球だった。
家族でよく球場に出かけた。
ロッテ時代の落合監督を川崎球場で見た。
あこがれは、横浜スタジアムのマウンドに立っていた遠藤一彦投手(元大洋)。
テレビでクロマティや駒田が映るとその場で物まね。
そんなひょうんきん者だった。
幼稚園から父や兄と一緒にキャッチボールを始めた。
少年チームに入ったのは小学二年。
五年生の時、六年生の投手が故障したのを機に、
右翼と投手を兼務することになる。しかし…。
「ノーコンピッチャーで有名でした。投手が嫌だとは思わなかったけれど、打撃が好きで三番だったし…」。
人生に“たら・れば”はない、とはいうが、もしこのとき、石井が打撃を選んでいたなら…。
生まれながらの難聴という障害を持つ。左耳は全く聞えず、
右耳も補聴器を付けて、近くの人としか話せない。
それでも、野球最高峰のプロから指名された。
ドラフト後、クラブのホームページには、
名古屋などから同じ境遇の子供を持つ親や、一般のファンから
「頑張ってください」「名古屋で待っています」
とメールが届いた。励ましの言葉を石井自身も読み、返信しているという。
大企業での安定した生活を手放し、地元・横浜を離れる。
心配する母・砂恵子さん(53)を「自分ひとりで出来る。心配ない」と説得した。
覚悟は出来ている。
「清原さん(読売)を強気で攻めて、三振を取りたい。〇五年は五勝を目標にして、リーグ優勝と、
日本一に貢献したい。一軍で活躍したら、障害者の方にチケットを贈ってあげたい」。
石井は両手で入場券の形を作った。
プロ入りという、ひとつの夢はかなえた。
今度は真剣勝負の場で名を成し、同じ境遇の人たちに勇気を与えるつもりだ。
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[名前]中村一生
[誕生日]1982年4月2日
[ニックネーム]イッセイ
[好きな食べ物]お好み焼き
[好きなタレント]蛯原友里(モデル)
[好きな野球選手]秋山(元ダイエー)、高橋光(中日)
俊足強肩が売り、強い下半身
大型外野手は、房総半島の豊かな自然にはぐくまれた。
「ここに来てよかった」。
中日からの指名を受けた中村一生外野手は、自らの決断に間違いがなかったことをあらためて確認した。
千葉・東海大浦安高では、高三の夏の甲子園で「五番・センター」として活躍。
準優勝に貢献した。
将来性豊かな逸材が、進学先として選んだのが東京から特急で約二時間の猟師町、
千葉県勝浦市にある国際武道大だった。
今年で開学二十一年目。過去にプロ入りしたのは、同じ中日の高橋光信内野手(29)だけだ。
伝統校という選択肢もあった中村が、あえて国際武道大を選んだ理由は、
「伸び伸びと野球が出来そうだったから」だ。
「いわゆる先輩・後輩みたいなものはほとんどなかった」。
大学時代は主将を務めた高橋光が振り返るように、アットホームなチームカラーに、中村もひかれたという。
加えて、大自然に囲まれた環境も魅力的だった。下宿の目の前には、広大な太平洋が迫る。
そこで中村は、野球の合間に、サーフィンに似た「スキムボード」に熱中した。
砂浜を全力疾走し、波打ち際に落としたボードを乗りこなすマリンスポーツは、野球にも役立った。
「砂浜でショートダッシュを繰り返しているようなもの。メチャメチャきついです。
それに、バランス感覚も鍛えられますし」
太平洋の荒波にもまれ、自慢の下半身はますます強靭さを増した。
俊足・強肩が売りの、アスリート系外野手は、長打力にも磨きがかかった。
三年秋には千葉県リーグの最高殊勲選手となり、大学通算では七本の本塁打も放った。
福留、アレックス、英智らを中心に、鉄壁を誇る中日の外野陣。
そこへ切り込む中村は「今の能力を、さらに伸ばしていかないといけない」と気を引き締める。
おおらかな環境から厳しいプロへ飛び込む、その覚悟はできている。
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[名前]小山良男
[誕生日]1980年7月14日
[ニックネーム]えなり(俳優のえなりかずきだ。ただ、本人は「似てないと思います」と否定)
[好きな食べ物]肉
[好きなタレント]小倉優子
[好きな野球選手]全員
横浜高時代、松坂の女房役
勝ち運とともに野球人生を歩んできた。平間中三年では、中本牧リトルシニアで全国大会優勝。
横浜高三年の時も甲子園春夏連覇。
さらに亜大でも四年時に全日本大学選手権、明治神宮大会で優勝。
輝かしい経歴。
だが、小山良男捕手(24)はそのキャリアを誇ろうとしない。
「運が良かっただけですよ。それに僕はすごい連中とバッテリーを組んできた。
たまたま彼らと同じチームにいただけです」
すごい連中----。横浜高では西武・松坂。亜大では読売・木佐貫と広島・永川。
そうそうたるメンバーとバッテリーを組んできた。
確かに「全国制覇」の偉業は彼らの功績が大きいかもしれない。
だが、小山なくして松坂たちもその力を発揮できたかどうか…。
JR東日本の中野監督が小山の底力を説明する。
「キャッチングもスローイングも打撃も、すべてにおいてすごい潜在能力を秘めている。
現在の力は彼にとって、ほんの氷山の一角でしょう。その確信があるから彼をプロに送り出すんです」
昨年十一月、それまで指導者への道を模索していた小山が「プロに行きます」と中野監督に宣言。
それから二人三脚で小山とともにプロを目指してきた恩師は、
原石が隠し持つ可能性を感じている。
同じくその実力を高く評価しているのが、誰あろう落合監督。
昨年、評論家時代にJR東日本を訪れた指揮官は、小山のフィールディングに注目。
「捕手らしい捕手」とひと目ぼれしたという。
「そんな評価をしてもらっていたなんて、うれしいです。でも、僕はまだ松坂たちと比べれば
スタートラインにも立っていない。自分の力で一軍を勝ち取って、そこで初めてスタートなんです」
契約金八千万円の高評価は指揮官を含めた周囲の期待の表れ。
でも、あくまで自分の力で一軍を勝ち取ってからが、プロの本当の勝負。
すでにスタートを切っているかつての戦友たちと相まみえる瞬間を、小山自身も待ち望んでいる。
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[名前]金剛弘樹
[誕生日]1979年2月12日
[ニックネーム]キンちゃん
[好きな食べ物]ねぎタン塩、レバ刺し
[好きなタレント]小西真奈美、加藤あい
[好きな野球選手]川上(中日)
最速百四十九キロ、ハートフルな右腕
彼ほど、プロ入りを待ち焦がれた選手はいないだろう。
日本通運の同僚・川井と並び、指名会見を受けた金剛弘樹投手は「ようやく、夢がかないました」
としみじみ話した。
一年目の夏から都市対抗のマウンドに立ち、順調な野球人生を歩き始めたかに見えた。
だが、その年の十二月に朝日生命の野球部が解散。
「急に知らされました。もっと早く分っていれば…」。
ドラフト会議前ならば、社会人一年目だが特例措置として指名を受けるチャンスはあったのだ。
その後、日本通運へ移籍。時速百四十九キロのストレートと、多彩な変化球でチームを引っ張った。
相変わらず、ドラフトの時期になると指名候補として名前が挙がり続けたが、
指名はなかった。
昨年は、西武から指名確実と言われながら、
結局は涙をのんだ。
さすがに落ち込み、年齢もあり野球を断念しようかとも考えた。だが「やめてしまったら可能性はゼロになる」。
あと一年。ラストチャンスにかけた。
今季は、その経験と強心臓を買われ、中継ぎや抑えとしても貢献。マルチ振りもアピール。
ついに念願のプロの世界へ、手を届かせた。
自分の置かれた立場は分っている。
「即戦力として指名していただいたのだから、一年目からフル回転しなければいけない。
どこでも何でもやらせてください」。
球団もその負けん気を十分に引き出そうと、年俸の他に下位指名では珍しい、
出来高(三千万円)を提示した。
「期待してもらっていると感じ、とても満足しています」。
呼応するように闘志を燃やすハートフルな右腕。目標は「川上さん。エースと呼ばれるようになりたい」と目を輝かせる。
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[名前]沢井道久
[誕生日]1979年6月25日
[ニックネーム]ミッチー
[好きな食べ物]ピザ
[好きなタレント]特になし
[好きな野球選手]松井稼頭央(メッツ)
強肩、俊足そしてスイッチ
遠投百十メートル。五十メートルは五秒七。肩と足は文句なし。
プロになるためにはこれにもう一つ、何かウリが欲しい。
考え抜いた末、沢井道久内野手(25)が導き出した結論が両打ちだった。
「社会人四年目の時、自分で考えてスイッチヒッターになろうと思ったんですよ。
足を生かすために左でも打ってみようか、と」
小三で野球を始めて以来、ずっと右打ちだった。だが、高校を卒業し、社会人となってもなかなかプロから声がかからない。
このままでは…。
ふと思い付いたのが、昔から好きだった松井稼頭中央(メッツ)。
あこがれの野球選手も両打ち。
なら、オレも。当時二十二歳。いきなりの“変身”だったが、これがはまった。
両打ちを始めてわずか四ヶ月後、公式戦前のオープン戦。左打席で放った一撃はフェンスを越えていった。
「人と一緒じゃプロにはいけない。人と違うことをしようと考えた結果がスイッチヒッターなんです。
右打ちだけじゃ普通の選手で終わってしまう、という危惧もありました」
新たな「型」を手にした沢井はその後、打撃力もグングン上昇。
今年の日本選手権東海予選では打率五割八分で首位打者に。
代表決定戦の王子製紙戦では、一点を追う九回に値千金の同点ホームランを放ち、
奇跡的な逆転劇へとチームを導いた。
プロ入りをあきらめることなく、自ら工夫を重ねて進化し続けてきた日々。
その結果、今秋ドラフトでついに小さいころから夢見ていた世界から声がかかったのだ。
「うれしいです。自分をしっかり持って、自分らしいプレーをこころがけたい。魅せるプレーで皆さんの期待に応えたい。
松井さんのように、すべてにおいてスピード感のあるプレーを見せます」
保育園の卒業アルバムに書いた将来の夢は「プロ野球選手」。
約二十年も思い焦がれてきた世界へ、沢井がいよいよその一歩を踏み出す。
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[名前]普久原淳一
[誕生日]1983年1月13日
[ニックネーム]カモシカ
[好きな食べ物]焼き肉、ケーキ
[好きなタレント]竹内結子
[好きな野球選手]特になし。目標は赤星(阪神)
ドラのレッドスター目指す
中日から十二巡目、ドラフト会議全体の一番最後に指名を受けた「しんがり男」。
法大・普久原淳一外野手の目指す選手は、
ドラのレッドスターだ。
「赤星選手のようなタイプになりたい。一番打者、走ることで得点に絡みたい」。
父譲りの快足は五十メートル六秒ジャスト、守備にも自信はある。
同じ中堅手で一番打者の赤星のように、いつか中日ドラゴンズを引っ張っていくことを目標に定めた。
プロ入りは、親子で追いかけてきた夢だった。
父・毅さん(42)も、普久原と同じく桐蔭学園から法大に進み、
高校時代、プロや社会人から注目される逸材だった。
その時は大学進学を選んだが、四年後、夢はかなわなかった。
卒業後は、リトル・シニアリーグの監督として、
息子を小三から中三まで指導。
「私がナゴヤドームに早く見に行けるようになってほしいですね」。
入団が内定した日、控えめに息子にエールを送った。
中日に新たに加わった秦真司捕手コーチは、毅さんの法大時代の同級生。
「普久原くんを試合で見たことがあるが、俊足、強肩で、中堅手と、
お父さんにそっくり。素質はいいものがあります。
これからが勝負ですよ」。
毅さんは「(秦コーチからは)『練習をして、準備をしておくように』と電話がありました」
と笑い、親子で秦コーチとともに野球をすることを
「これも何かの縁でしょうね」と感慨深げだった。
父とともに野球人生の半分を送ってきた普久原にも、何度か分岐点があった。
以前投手をやっていた経験から、法大入学時、ストレートは最速百四十キロをマーク。
外野手か投手か迷ったが、打撃が好きだったことに加え、
二年上の土居龍太郎投手(横浜)ら好投手がそろっていたことで、外野手専念を決めた。
昨春は、何としてもプロに進みたい一心で、「カモシカ」と呼ばれる俊足を生かすために、
もとの右打ちから左打ちに転向した。プロ入りと同時、来春のキャンプからは、
本格的に左右打ちに挑戦する。
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『月刊ドラゴンズ』(二〇〇五年一月号)より