- あすなろの詩(うた) - 1991.9.15刊/ぎょうせい/宇野勝著 |
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宇野さんは、いかにも旧家の坊ちゃんらしい風格を備え、
目鼻だちの整った紅顔の美少年でした。
-- 東京大学名誉教授 鶴田禎二氏(推薦文より)
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町を歩いていると、「宇野さんの講演に感動しました!」という人に出会ったという。 以下は、そのときの講演の内容だそうだ。
たとえば、プロ野球選手になるには、 努力だけではどうにもならない。 「努力は必ず報われる」「頑張れば夢はかなう」 と言ってみたところで、頑張って球速が150キロ出るわけではないし、 人の倍練習すればナゴヤドームの5階席に打球が飛んで行くわけではない。 そこには 「持って生まれたもの」 が確実に存在し、 あすなろはあすなろ、決して檜になることはないのである。 山崎武司がいくら努力したって、赤星のような俊足にはならないし、 赤星がいくら練習しても、山崎のような長打力は身に付かないだろう。 宇野は、こう言いたかったのではないだろうか-----。 「落合監督が目標です、今中投手が目標です、という若い人がいるが、 出来ないことを目標にするな。 出来ることを、より伸ばすんだ。 ヒノキに“変わる”のではなく、あすなろはあすなろであることを自覚し、 その上で“最高のあすなろ”を目指すのだ」 と。 成長とは、自分を“変える”ことではなく、“伸ばす”ことである。 そしてその過程で、それが必然であるならば、自分が「変わる」こともあり得るだろう。 「みにくいアヒルの子は実は白鳥の子だった」という童話があるが、 白鳥の子が白鳥になることは、成長の過程での必然だったに過ぎず、 決して「白鳥になりたいと思い、努力したから」白鳥になれたわけではない。 アンデルセンは、 「白鳥になるのは、白鳥の子だけだ」ということを、童話を通じ、 リアリティーのない現代っ子たちに教育したのである。
宇野はここで、選手を過度に甘やかした現在のプロ野球界に五寸釘をブッ刺している。 金は手段であって、目的ではない。 金のためにやる野球では、選手もファンも、幸福など味わえはしないのだ。 いいことを言うなあ、さすが宇野!!
現役時代、いくつ三振を量産しようが、エラーを連発しようが、 自分の持ち味である“一発屋・宇野”を貫き通し、 落合のような全てに完璧な「檜」にはならないまでも、 豪快なフルスイングで立派な「あすなろ」となった宇野の勇姿は今も瞼に焼き…
…ん?
昭和四十二年って、ずいぶん古い話だな、宇野よ…。
…誰だ、お前。 | |||||