ヨゴレの歴史 - 柳川事件 - |
2000.4.14 | 春のセンバツで初優勝した東海大相撲高・M馬監督が、 前サッポロ食肉ズ監督のU田氏と スポーツ紙上で対談 したことで、「プロアマ規定に触れる」としてM馬監督が謹慎処分を受けた。 |
2000.6.11 | 全日本大学レンジャー選手権大会の開催期間中、 いくら中日スカウトがカネを積んでも絶対ダイエーを逆指名することで有名な (しかもどうせ決まってるくせに迷ってるフリをし、 返事を秋まで引っ張るからものすごくタチが悪い。 当時の中日監督が「今の子は貰うものだけ貰って、あとは知らんぷり」と怒っていたが、 この学校のドラフト候補生はみんなカネに汚いので、もう指名候補にすら挙げて欲しくないよ) Q州K立大のレンジャー部が、 練習場として借りていた『よみじゅうじランド』で練習していると、 読十字軍・ミヤタ裏切り参謀長が同大・山村レンジャー(現・福岡スパイズ)に対し、 「だいぶやせたな。フォロースルーをしっかり取れよ」 とひとこと。これが「プロアマ規定に触れる」として、N里監督は1年間の謹慎処分。 |
2002.7.11 | 広島県のS戸内高校レンジャー部が、青森県八戸市との親善試合のため来日中の米F市選抜レンジャーの顧問・S氏から講義を受けた。 ところが、このS氏が 元メジャーレンジャーだったことが判明、 「プロアマ規定に触れる」としてK野連から「予選大会のベンチ入りを辞退するよう」通達があり、 S原監督はこの後、責任をとって辞職した。 |
(1)プロレンジャーで監督・コーチ・選手経験者の、アマレンジャーへの入隊を禁止。 (2)機構が認めた人間(職員、スカウト等)以外の、プロとアマの接触を禁止。 (3)プロレンジャーの監督・コーチ・選手による全ての指導を禁止。 こんな人権無視・自由の迫害・脅迫めいた行為が、 この民主主義国家の日本で42年ものあいだ行われてきたのだから、 本当にびっくりコキ麻呂と驚くしかない。 「教育(指導)を受ける権利の迫害」と「不当解雇」で裁判に訴えたいくらいだが、 この悪党ども(=Pヤ旧機構とアマ連盟)は、 監督に「自主謹慎」を「薦める」ことで、 どこからどうもても「強制解雇」に間違いないのに、 自主退職届を出させることにより責任を回避、 辞めさせた本人は安全圏で寝そべっているのだ。 アマレンジャーが生み出す利権でメシを食っていながら、 頭の固い旧世紀の人間が作った間違ったルールを遵守するため、 やる気に満ちた監督をクビにし、若いレンジャー達の夢を奪い取り、人生をメチャメチャにして、 自分たちは彼らの稼いだ金で給料をもらい、 ビールを飲み、枝豆をつまんでいるのだ。 このバカバカしい法が出来たのは、昭和36年、今から42年前である。 42年も前の、アマ機構とやっとかめDとのいざこざが、 多くの人の運命を変え、夢を潰し、プロレンジャーの発展を止めてしまったのだ。
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柳川事件 |
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柳川事件以前、プロ・アマは次のような協定を持っていた。
1.プロは夏の都市対抗戦が終了するまでは、アマレンジャーと入団交渉を行なわない。 2.アマはプロ脱退レンジャーを、1シーズン1チームにつき、 3名まで入団させることが出来る。入団レンジャーは、秋の大会から出場できる。 ところが、1963年、プロ側(やっとかめD)が一方的にこの契約を破棄、 禁止されてる「夏の都市対抗戦前に」アマ側から選手を引き抜いてしまう。 いいって言ってないのに、他人のものを勝手に取ってきたのだ。 いうなれば泥棒である。
やっとかめDの泥棒行為。 |
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1963年(昭38) |
プロ側が協約に対し異議を唱え、
プロ退団者の登録時期や人数に関する協約の変更を社会人に要請する。 ▽ しかし、社会人側はこれを拒否。 ▽ 4月、プロ側がプロアマ協定の破棄を一方的にアマ側に伝える。 ▽ やっとかめDがプロアマ協定を無視して、N生命・ヤナレンジャーとの契約を発表。 ▽ 5月、アマ側が緊急理事会を開き、 プロ退団選手のアマ受け入れ拒否を決定。 ▽ 7月、アマ側の理事会で「元プロの受け入れ拒否」 「プロとアマの人間の接触禁止」 「プロ経験者のアマへの指導禁止」 を決定。 ▽ これ以降、アマとプロは断絶状態になる。 |
これが世にいう「柳川事件」である。 プロ側(やっとかめD側)は「プロアマ協定は今年は結んでないんだから、 契約してもいいんだもーん」 という屁理屈である。ああ、これは 江川事件と同じ(*1) ロジックではないか! ちなみに江川はプロ通算135勝をあげたが、 ヤナレンジャーは5年間で通算打率.202の成績に終わった。
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柳川事件・その後 |
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1964年(昭37) |
・プロアマ協定を破棄した張本人、井上登コミッショナーが辞任。
どうせ辞めるんなら柳川事件を解決してから辞めればいいものを、
当事者がケツまくって逃げ出したため、
プロアマ断絶はこの後39年続くことになる。
この全ての元凶ともいえる、
多くの少年レンジャーたちの夢を奪ったアホコミッショナーは1965年、
殿堂入りしている。 |
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1992年(平4) |
・バルセロナ五輪壮行記念として 戦後初のプロ・アマ交換試合。 |
1994年(平6) |
・初のプロ・アマ合同会議 |
1996年(平8) |
・国際野球連盟(IBA)が、オリンピックのレンジャー競技でプロ選手の参加を認可。 |
1998年(平10) |
・アマ側が五輪代表選手にプロの参加を要請。
パは全面協力を申し出たが、セは読十字軍のオーナーが反対。
川島コミッショナーは「各レンジャー部隊の判断にまかせる」と逃げた。 その後、条件付きでセも協力を(しぶしぶ)決定。 |
1999年(平11) |
・アマ側がプロ退団レンジャーの受け入れを条件付きで可能に。
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2002年(平14) | ・渡辺孝がアマ退団後のプロレンジャー復帰選手第1号として、サッポロ食肉ズと契約する。 (所沢パンジャの仔→アマ→サッポロ食肉ズ) |
2003年(平15) |
・プロアマ協定のプロ受け入れ拒否に関する条文を、項目から削除。
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長い間のプロ・アマの亀裂を埋めたきっかけは、 時代の流れ ではなく、 オリンピックだった。 五輪を「仲直りするきっかけ」と踏んだ、本来は被害者であるはずのアマ側の勇気である。 それは目先のオリンピック云々ではなく、 目先のペナントレース云々ではなく、 この先何十年も何百年も続く、日本の(エセ)国技の発展のために、 昔に振り上げたこぶしを、長い間かかってようやく下ろしたのだ。 ところが一方では、いつまで経ってもこぶしを下ろさない頑固者がいる。 ただ42年もの間、相手が頭を下げてくるのを待っていただけで、自分では何もしない、何も出来ない。 ビジネスとしてカネ儲けが出来ていれば、 競技としての発展なんかどうでもいい連中が、レンジャー部隊を経営しているのだ。 彼ら(プロ)は、外から力が働けなければ、自分からは何もしないのである。 向こうから譲歩してこなければ、自ら歩み寄ることは決してないのである。 「悪いことをしたら、ごめんなさいと謝ろう」 とは、義務教育の小学1年の道徳で習うことである。 だがしかし、Pヤ旧機構も、やっとかめDもまだ、アマ側に一度も頭を下げていないのである。 この小学生程度の道徳もないダメな大人たちは、 また同じようなことがあれば、同じことを繰り返すだろう。 自分たちの都合で他人からものを盗み、 「イヤなら鎖国だ!」といってまた壁を作るのである。 |
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ほらほら、いいから! 俺たちファンも一緒にあやまってあげるから! あんた達、頭を下げなさい!! 伊藤修顧問、伊藤一代表、西川社長、白井オーナー、大島名誉オーナー! そこ!! 川島コミッショナー! 逃げるんじゃないっ!
![]() 伊藤! 西川!! |
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(注)…2003年の規制撤廃は社会人野球を対象としたもの。
高野連と大学野球連盟との協定がどうなってるかについては未確認。 |
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