「シザーハンズ」 ('90米)

監督:ティム・バートン、主演:ジョニー・デップ



(一)

たとえば、どうしようもなく辛い出来事に遭遇してしまったときや、 救いようのない現実に直面してしまったとき、 悲しい出来事を経験してしまったとき、 あなたならどうするだろうか?
てっとり早いのは、「なかったことにする」事である。
「忘れる」だとか「現実を受け入れる」というのも結構だが、 「なかったことにする」のが一番簡単である。


(二)

昨日の夜も夜中の2時に、 私の家の留守電にメッセージが入っていた。 メッセージは以下の通りである。

「うあ?サトー、留守電だとぉ?てめ、こんな時間に留守なわけねぇべ? 部屋にいるのは分かってるんだ、さっさと出ろ! おい、出ろっつってるだろ、このボケー!カスー! 5秒だけ待ってやる。5、4、3、2…1。 おいコラ、留守なわけねえだろ。さっさと出ろ! 寝てるんなら起きろ!コラ!起きろ!」

なんとタチの悪い悪戯電話だろう。
夜中の2時、確かに留守なわけはない。 「いるのは分かってるんだ」という電話の主の推測は間違ってはないが、 「寝てるんなら起きろ!」とは無理な注文である。 寝てるから留守電なのだ。こんな深夜に電話しておいて「起きろ!」とは、 偉い人間もいたものである。
この深夜の迷惑電話は別に今にはじまったわけではなく、 私の留守電にはしょっちゅうこんなのが入っている。 電話の主はいつも同じ人間で、 2時ならまだ早い方で、中には3時とか4時半なんて事もある。 たいてい私に対する口汚い罵りの言葉のあと、「寝てるんなら起きろ!」 と理不尽な要求をする。まるで酔っぱらいだ。

実はこれは私の友人Kの、酔っぱらったときに出て来る二番目の人格・ ハンスという人物の所業である。 ハンスは酔うと市役所の玄関ガラスを割ったり、交通標識を盗んできたり、 深夜に女子高のグラウンドにしのび込んで雪だるまを作ったりする無法者だ。 人の迷惑なんか考える知能がないから、朝の4時でも平気で電話をかけてくる。
私はハンスのこう言った深夜の迷惑電話は「なかったことに」している。 これはハンスの飼い主Kと私とのお互いの了解事項で、 ハンスのした事はあくまでハンスのした事で、 翌朝Kに文句を言ってもどうせ覚えてないから、 注意したって無駄だからである。 我々の間ではハンスは「いなかったことに」になっているのだ。
もっとも、Kに言わせれば、 私が泥酔したときもジョニイなる第二人格があらわれ、 いろいろここでは書けないような奇異な行動をするのそうだ。 無論、翌朝になってそんな事を言われても私は覚えてないので、 私もジョニイの起こした行動は「なかったことに」している。


(三)

この『シザーハンズ』という映画は、 両手に鋭利なハサミを持つ不幸な人造人間エドワードの物語であるが (彼を作った博士がいったい何の目的で彼をこんな体にしたのかは 最後まで明かされなかった)、 淀川長治の解説の「この映画は、ジツに、ジツに、ウツクシイ映画です。 ハイ、ウツクシイって、映像じゃないですよ。では、サヨナラ、サヨナラ」 という言葉に、私は全く同意する。
人造人間とはいささか子供っぽい比喩の形式であるが、 そんな設定など気にならないほどこの物語はよく出来ている。 人の心の美しさと醜さの対比、そしてそれは見ている観客の中の、 心の美しい部分と醜い部分のツボをグイグイと押す。
バルタン星人にして植木職人、 それでいて腕のいい美容師であるエドワードは、 その珍しい風貌と優秀な技術から皆にチヤホヤされる。 そして、ちょっとした誤解により、途端に手にひらを返すまわりの人々。 主人公をどんどんと不幸にしていく事で映画は、 言葉を使わずに観客を断罪する。 「何故彼はこんな目にあわなければいけないのか?」

エドワードの周囲の人間は、 一般常識としてほぼ当然の行動を取りながら、 エドワードの心を傷つけて行く。 彼らは、スクリーンの前にいる観客の比喩なのである。


(四)

この物語の結末は、 エドワードを「いなかったことに」することでエンディングを迎える。 エドワードを愛したキムは、彼の命を救うため、いや、 救うという名目で「臭いものにフタを」をしてしまったのである。
そして人造人間であるエドワードは、存在を否定され、 死ぬこともかなわず、たった一人で無意味に生き続けるのだ。
私はこの安易なキムの「逃避の思想」を非難せずにはいられない。 周囲に誤解され行き場を失った主人公のたった一人の味方であったキムは、 実はもっとも非難されるべき敵であったのだ。
エドワードのことを「思い出」として心の中に閉じ込めてしまったキム。 だがしかし、エドワードはたった一人で生き続けている。 エンディングで流れるエドワードの姿が画面を通じて我々に訴えかける。

「いなかったことにする」ことで問題は解決する。
いなかったことにされた者以外は。


(五)

私は、私の中のジョニイを存在として抹殺しているが、 それでも酒を飲んだ翌朝は、 部屋のテーブルがひっくり返って床が水びたしになってたり、 冬だと言うのに掛け布団を放り出して裸で寝ていたりする。
ジョニイは、確実に何処かに存在しているのである。