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第二次星野時代

井上、開幕二十一試合連続安打 1999年

星野仙一
そ してこの開幕十一連勝で大活躍したのが、後に 「真の主砲」「桜島のような男」「超イケメン」 と呼ばれる スーパースター・井上一樹だ。


 一九九九年初頭、背番号「99」になぞらえ 「今年はオレの年やで!」 と言い出した井上は、 プロ十年目で七番ライトのスタメンに定着、 他チームに「恐怖の七番」と恐れられるようになる。 「恐怖の〜」というのはもちろん 顔が恐い という意味だ。

 その威圧ある顔に萎縮した相手投手は体がすくみ、痛打を浴びてしまうんだ。 この年、井上は開幕からプロ野球史上二位となる(一位は阪神・和田) 開幕二十一試合連続安打を記録、 十一年振りのVを目指す中日のぶっちぎり開幕ダッシュの原動力となったんだよ。

ハードプレイハード
星野仙一 『ハードプレイハード 勝利への道』 p.78より
 昨年(註:一九九九年)は、 水谷実雄バッティングコーチに、多大の我慢を強いられた。 たとえば、外野手の井上一樹のことである。 一昨年は二割六分四厘、三十一打点。 ボール打ちをしがちな勝負弱いバッターだから、 あまり使いたくはない、とは思っていたが、 水谷コーチが許してくれなかったのである。

 水谷コーチは、キャンプでは、毎日朝早くから井上をグラウンドに引っ張り出して、 必死になって指導していた。 オープン戦、そしてシーズン入りしてもその早朝の風景は変わらなかった。

 「監督、カズキ(井上)を使ってやってください」
 「いやだ、使わん」
 「いや、良くなってますから、使ってください」
 「ほかにいいバッターがおるだろう、今年はもう使わんぞ」

 こんなやり取りを繰り返した末に、水谷コーチから 「我慢して使ってみてください」 とまで言われると、私も折れるほかない。 長足の進歩とまではいかなかったが、 井上の昨年の成績は二割九分六厘、六十五打点、いいところで打てるようになり、 得点圏打率の部門では、ベストテンに入った。


 「ワシが育てた」「ワシが、ワシが」「手柄は全部ワシ」 といつも言ってるイメージが強い星野監督だけど、 コーチ陣へのフォローはしっかりしている。

 野口を育てたのは宮田コーチ、 岩瀬を育てたのは山田久志コーチ、 福留を育てたのは高代コーチ、 井上を育てたのは水谷コーチ。

 こういった周辺のスタッフへの気配りが、 俗に“星野閥”と言われるグループの結束を固くさせるんだろうね。。

そのコーチを信頼して全てを任せたワシは偉い、 ということなんだがな。 青コアラ
金コアラ またそういう話になるようにマスコミが誘導するからな。


真の主砲

スーパースター

超イケメン

宴会部長
井上一樹

・1988年、外野手として甲子園出場(鹿児島商業)。三塁打を放ち大器の片鱗を見せる。秋から投手専任。

・1989年夏、鹿児島大会決勝で大西崇之率いる鹿児島商工(現障南)に敗れる。

・1989年秋、ドラフト二位で中日に投手として入団。左の本格派。

・1995年から野手転向。同年、ジュニアオールスターでMVP獲得と天才振りを見せつける。

・1999年、開幕二十一試合連続安打(日本歴代二位)。ピンクのリストバンドで話題に。

・2003年、プロ野球界では一人しか選ばれないゴールデン・スピリット賞を受賞。 心技体揃ったスーパースターと誰もが認めた。

・2004年、日本シリーズで一人気を吐き敢闘賞。

・2005年、FA権取得も、ドラゴンズへの愛情から行使せず。

・2006年、選手会長就任。名実ともに中日の「顔」となる。

・2008年シーズン終了時点で通算安打860本。 二千本安打まであとわずか1140本とリーチをかける。


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