前へ 次へ 目次へ ホーム
第二次星野時代

ドームの申し子を育てようとして失敗 1997年

星野仙一
広 くなったナゴヤドームへの対応。星野監督は、 「守りの野球、機動力が大事になる」 とシーズン前には言っていた。

 そしてその方針のもと大抜擢したのが 「ドームの申し子」 こと二年目の益田大介であったり、 四年目の鳥越裕介だったり、俊足外野手としての荒木雅博など、 経験の浅い若手を大胆に使っていった。

 しかし、守備・盗塁専門の若手を抜擢したはいいけど、 大豊泰昭・山崎武司ら強竜打線と呼ばれた打撃陣が揃って大不振、 チームは最下位に転げ落ちた。

まあシーズン前から星野監督は 「今年は優勝か最下位」と言っていたけどな。 青コアラ
金コアラ 言った通りになったわけだ。


 投手陣は移籍二年目の宣銅烈が 国から本場のキムチを直輸入したことにより完全復活したけど、 先発は山本昌の「一人ローテーション」。 どれくらい先発不足だったかというと、 前田幸長が負けても負けてもローテーションから外すことが出来ず(他にいないから)、 二勝十三敗で先発ローテを守り抜いた という珍事にあらわれている。

 こうして星野監督の「守り勝つドーム野球」はあっという間に破綻したんだ。

このころ中日球団ホームページに「公式チャット」なるものがあって、 試合開始三十分後くらいにアクセスしてみると、 もう中継ぎの北野とか遠藤とかが投げててな。 青コアラ
金コアラ 「ああ、今日の先発は前田ですか」と。

歴史の始まり

 中日の「球団公式ページ」が始まったのはこの年、一九九七年。
 当時の公式サイトには試合速報を見ながらファンがリアルタイムで語り合うチャットがあって、 ナゴヤ以外に住む試合を見れない中日ファンには大好評だった。

 でもこのサイトは厳密にいえば「公式」ではなく、 ホームページ制作会社が「お試しサイト」として無償で始めたプチ公式サイト。 一年目は「わが社はこういうサービスをしてますよ」というPRで、 「気にいったら二年目以降は有料で契約してください」 という、いわば「お試し版」だったんだね。

 この制作会社が運営していたホームページは中日・横浜・広島の三球団。 まだPerfecTV!による全試合完全中継もなかった時代、 三サイトともファンの間では大好評で、 中日と横浜は二年目以降の契約をしたけど、 広島は「有料ってのはちょっと…」と契約をしなかったんだ。

 こうして広島のプチ公式サイトは一年限りで消滅し、 広島ファンからは「なんでうちだけ閉鎖なんじゃあ!」 と不満の声があがり、 そんなファンの声に応える形で、 RCC中国放送が試合経過と掲示板を掲載した 「RCCカープインターネットスタジアム」 のホームページを開設したんだ。

 このときのRCCの行動に敬意を表し、 本サイトのリンク集では RCCのサイトを(球団公式じゃないのに) 公式サイト扱いで載せているんだよ。

初期のドラゴンズ公式ホームページ
IFC


人物紹介
中野栄一
中野栄一
(なかの・えいいち、1997-2004)
 入団翌年、スカウトに「亜大にドラフト指名候補が二人いるんだけど、 先輩の目でみてどっちの選手がいい?」と聞かれ、 「井端がいいっスよ」と答えるという、実にいい仕事をした。


山田貴志
山田貴志
(やまだ・たかし、1997-1998)
 中日の“山田の歴史”では山田喜久夫が「キク山田」、 山田広二が「広二山田」、 山田洋が「ヒロ山田」と変な登録名をつけられたが、 山田貴志は「山田貴」と普通だった。

佐藤康幸
佐藤康幸
(さとう・やすゆき、1997-2000)
 雨の甲子園サヨナラ四球といえば一般野球ファンは江川卓を思い出すが、 中日ファンは雨の神宮サヨナラ四球といえばサトヤスのことを思い出す。 サヨナラ押し出し負けだけなら江川クラスだ。

筒井壮
筒井壮
(つつい・そう、1997-2004)
 叔父はプロ野球チームの監督(当時)で、ファンからは「甥っ子」と呼ばれた。 内外野守れるユーティリティ・プレーヤーとして活躍。

宮越徹
宮越徹
(みやこし・あきら、1997-2004)
 外国の美人モデルに肌の色が似ているため、“ナオミ”と呼ばれた。


1997年
ベストオーダー
1997年ベストオーダー

有働克也
有働克也
(うどう・かつや、1997-1999)
 中日には三年間在籍したが、 移籍一年目に移籍初勝利を挙げたときに星野監督が自身のホームページに 「まさに働き有りだ」と変なダジャレを言ったため、 その後は一勝も出来なかった。



前へ 次へ 目次へ ホーム