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第一次星野時代

落合、年俸調停 1990年

星野仙一
落 合はこの年のオフ、日本人選手としては初めて 「年俸調停」 というシステムを利用したんだ。

 年俸調停とは、おカネで球団と選手がモメたとき、 プロ野球機構に金額を決めてもらうというシステム。 その結論に選手がイヤだといえば選手は引退、 球団がイヤだといえば選手は自由契約となり、好きな球団と契約できるんだ。

 でもこれまで、このシステムを使う人は日本人選手ではいなかった。

 落合が年俸調停システムを使うことが明らかになると、 世間・マスコミはこぞって
 「落合が球団とカネのことで揉めている」
 「一億以上ももらっていて、まだカネが欲しいのか」
 と騒いだんだ。

ここまでの落合博満の成績(中日移籍後)
年度 打率 HR 打点 タイトル 年俸
1987 .331 28 85 最高出塁率、最多得点 1億3000万
1988 .293 32 95 最高出塁率、最多勝利打点、最多得点 1億3000万
1989 .321 40 116 打点王 1億3000万
1990 .290 24 102 本塁打王、打点王、最高出塁率、最多得点 1億6500万

【問題】
 さて、みんなが球団の査定担当なら、 この四年間の成績表を見て、一九九一年の年俸として幾ら提示する?
 そして皆さんが選手なら、この成績でどれくらいのアップを主張するだろうか?
シンキング・タイム!!


【答え】
 球団の提示額:二億二千万
 落合の希望額:二億七千万


 そして、この年俸調停は球団側の主張が通り、 落合の新年俸は二億二千万に決まったんだ。
 この一件で「落合と球団の関係は泥沼!」と マスコミは大喜びで書き立てることになるんだけど、 落合の著書『プロフェッショナル』によれば、 この年俸調停は“予定の行動” と書いている。

プロフェッショナル
落合博満 『プロフェッショナル』 p.297より
 オフの話題としてメディアが大騒ぎした私の年俸調停は、 実は伊藤さんと私の間で最初から決めていたことだったのである。 ただし、交渉もせずに調停を申請することはできないだろうということで、 セレモニーとしての交渉を2度ばかり行った。 2度目は2月13日だったから、 伊藤さんが春季キャンプ地の沖縄まで足を運んでくれた。 そこで取り決めたのは、お互いに調停に出す金額だけであり、 私が2億7000万、球団は2億2000万ということになった。

 コミッショナー、セ・パ両リーグ会長で組織される調停委員会は 2月28日から審議を始めたが、 それまでにはコミッショナーから「もっと話し合え」という通達が出されたり、 メディアには球団と私の関係が最悪であるという内容の憶測報道を何度も流された。 世間では泥仕合と思われていたようだったが、 伊藤さんと私の二人だけは、 そんな情報に笑いながら舌を出していた。

セレモニーとしての保留、か。 青コアラ
金コアラ ハンコは忘れてなかったのか。

 しかし、落合の思惑とは裏腹に、 世間的には「落合=銭ゲバ」のイメージが色濃くなる。
 また、このとき球団が用意していた“落合予算”は実は二億五千万で、 浮いた分を伊藤代表が 「去年、泣いてもらったから」と翌年の契約更改時に上乗せし、 落合の次の年の年俸は三億円にハネ上がった。
 それをみて周りは「上がり過ぎじゃないのか。また落合がゴネたに違いない」と思ったんだ。

 落合が笑いながら舌を出してる間、口下手な落合のイメージはどんどん悪くなっていく。


1990年
トレード
1990年トレード

人物紹介
バンスロー
バンスロー
(1990)
 中日には一年だけの在籍だったが、二十九本塁打・打率三割一分三厘と活躍した。 ホームシックにかかり、二年契約を解除し帰国した。

ディスティファーノ
ディスティファーノ
(1990)
 乱闘になると敵味方構わず本気で殴るシャレの通じない外国人。 星野野球の乱闘はいわばパフォーマンスで「怒ってる演技」だが、 ディスティファーノは本気で殴っていた。

伊藤闊夫
伊藤闊夫
(いとう・ひろお、1986-1996)
 一九八六〜一九九六年のドラゴンズ球団代表。 中日の球団代表は「伊藤代表」が多いので紛らわしい。

伊藤修
伊藤修
(いとう・おさむ、1996-2001)
 一九九六〜二〇〇一年のドラゴンズ球団代表。 中日の球団代表は「伊藤代表」が多いので紛らわしい。
伊藤一正
伊藤一正
(いとう・かずまさ、2001-2008)
 二〇〇一〜現在(二〇〇九年)のドラゴンズ球団代表。 中日の球団代表は「伊藤代表」が多いので紛らわしい。



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