『野球人』 (1)

1998.12.9刊/ベースボール・マガジン社/落合博満・著
野球人
 全四章にわたる落合の集大成、 CDでいえば『ベスト盤』とでもいうべき書である。 第1章『落合は引退しない』では引退にいたる決意、 現在の心境を語り、 第2章『落合博満・十番勝負』では過去の名場面を振り返る。 かつての名シーンが脳裏に甦り、 当時を知るオールド・ファンにはたまらない一章だ。 そして第3章『監督・落合、理想のチーム』では、将来、 いつか自分がもし監督になったとき、 どのようなチーム作りをしようか、落合の「夢」が描かれている。 第4章『21世紀の野球選手へ』では プロ野球が現状抱える問題点と、それに対する提言を。 本書では過去・現在・未来における「落合イズム」が凝縮されている。 「元締めは何冊も書を出してますが、どれか一冊買うとすれば、どれですか?」 と聞かれれば、私は文句なくこの書を薦めるだろう。
 落合は、野球の試合に“ストーリー”があると考えている。

     私の試合における『読み』がズバリと当たって勝った中で、 最も印象深いのは1989年8月12日の読売戦。 ナゴヤ球場でノーヒット・ノーラン目前の斎藤雅樹から逆転サヨナラ3ランを放って、 敗戦投手に叩き落した一戦である。

     (3−0のビハインド、斎藤雅にノーヒットのまま)9回裏の中日の攻撃。先頭の中村が三振に倒れる。 ベンチのあちこちからため息が漏れ、「今日はやられたな」という声が聞こえた。 まだ試合は終わってないのに不謹慎なようだが、私も同感だった。この試合は、 展開を『読む』ような流れはなかった。
     ところが、投手の代打に出た音重鎮のバットから快音が発せられた。 ベンチから身を乗り出すと打球はライト線のフェア・グラウンドで弾んでいた。

     この時、私は面白いことを考えはじめていた。
      「ここから中日がひっくり返したら、 これは球史に残る試合になるな」 というものだ。
     そして、私はここからの展開を『読み』始めたのだ。


    その後、彦野が倒れて2アウト、川又は四球、 仁村徹のタイムリーで1点を返し完封を阻止する。 2点差となり2死一三塁、バッター落合を迎える。
    (文章はsato23によるまとめ)


     ベンチから見ていた ここまでの展開が私の思い通りになっていたので、 最後も私のイメージ通りになる だろうと思えた。 自信とは違った確信のようなものがあった事を今でも覚えている。
     もちろん、打席の中では球種やコースを『読む』ことはしなかった。 どんなボールが来ても、私の身体が自然に反応してくれるはずなのだ。
     斎藤が投じたこの試合の125球目。真ん中のストレートだった。 打球はバックスクリーンのやや右に吸い込まれた。
 元締めは、“流れ”の中で試合展開を見ていた。
 「こういう流れだから、きっとこうなるはず」。
 そこには論理的な根拠など、ない。 理由があるとすれば、「その方がストーリーとして面白いから」だ。 音が放ったノーヒットノーラン阻止の1ヒットは、いわば、 “偶然のための必然” なのである。

 「こういう流れだから、きっとこうなるはず」。
 こういう見方は、私は好きだ。

 私が野球を観るのも、野球を単なる技術の競い合いではなく、 「ストーリー」であると考えるからだ。
 強いチームと弱いチームがやれば、必ず強い方が勝つ。 そんな、 エンディングがあらかじめ予想できるような 陳腐なストーリーはいらない。 さまざまな偶然が必然的に入り込む、 「面白い勝負」を見たいのだ。

 だから、読売は人気がないのである。

国民の三大義務は?


 「ストーリー性のある野球」。
 それとは対極に位置する野球を目指したのが、 読売・ナガシマ終身名誉監督だ。
 ナガシマは“常勝・読売”を必然にしようと画策し、 一切の偶然性を排除しようと、他球団のエースや4番を奪い獲り、 「読売のチーム力をあげるだけでは飽き足らず、 ライバル・チームの戦力を削る」作戦で、 「間違いなく勝てる戦力」を整えた、はずだった。 (個々の成長・レベルアップを妨げるこの方針は、 日本のプロ野球の発展を10年遅らせた。 その意味でナガシマはプロ野球界の癌であり、大罪人である。)

 だがしかし、彼は「常勝チーム」を作ることは出来なかった。

 頼みの4番が原因不明のスランプに陥ったり、 頼みのエースが突然の故障でローテが頭から狂ったりしたことが、 目に見える「原因」である。
 しかし、果たしてそれは“偶然”だったのだろうか?

 いいえ。
 “お天道さま”はしっかり見ている。
 「そんなストーリー性の野球じゃ、視聴率が取れない」
 と思った神様という名のディレクターが、 “強い選手を集めれば強いチームになる” という三流脚本家(=ナガシマ)が書いた面白みのないシナリオを、 “カネで補強した強いチームを、弱い貧乏なチームが退治する” というシナリオに書き換えたのである。
 意地汚い補強によりストーリー性を排除しようとしたナガシマが失敗したのは、 偶然ではなく必然だったのだ。

 水戸黄門が、カネと権力で悪代官を屈服させたとして、観衆は喜ぶだろうか?
 観客の求めるものは、 「正々堂々とした勧善懲悪」 であり、「(カネのある者が勝つのではなく、正しい者が勝つ」 という結論でなければ、視聴者は納得しない。 彼らが観たいのは「黄門が代官に勝つところ」ではなく、「正義が悪に勝つところ」なのだ。

 重要なのは「勝つこと」ではない。「ストーリー」なのである。 (もっとも、水戸黄門はいつも最後は権力や家柄、暴力によって悪代官を押さえてるし、 読売に比べて中日が『善』かというと、最近はそうでもなくなってきた)


あきれる栗田さん


 野球人気が落ち始めたのは、読売がカネによる補強に走ってから、と言われる。
 2000年の読売の独走Vのときは、勝てば勝つほど読売戦の視聴率はうなぎ下がりに落ち、 氏家日本テレビ会長は、 「読売が強すぎると、お客さんが安心してテレビのチャンネルを替えてしまうんですな! 強すぎるのも困りもんですわ!」と アンポンタンな分析 をしたものだが、案の上、 読売が優勝しても世の中の景気は悪くなる一方で、 1点差の接戦の試合をしていても、読売戦の視聴率があがる事はなかった。

→ 後編へ続く!


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