『なんと言われようとオレ流さ』

1986.4.11刊/講談社/落合博満著
なんと言われようとオレ流さ
 ロッテ時代、 元締めが2度目の三冠王になったときにこの書は出ている。 中日ファンを惑わす謎のキーワード、 “オレ流”という単語は、おそらくこの書が初出 ではないだろうか。 と、いうことは、“オレ流”はマスコミの創作語ではなく、 元締め本人の口から出た、ということになる。
 第3章『オレの打撃の秘密を公開しよう』の中、本書の140ページにその言葉は出てくる。
     プロ野球は、いい数字を残してはじめて自分の存在価値が生まれる商売。 それなら、人の流儀でやらされてダメになるより、自分流にやってダメになった方が納得がいく。
     だから、はた目には真剣味が足りないように見えても自分のペースを崩さない。 オレは、こと野球に関してはガンコだ。横やりを入れられても自分が納得しない限りダメなの。 なんと言われようとオレ流さ。
 そしてこの年、元締めは3度目の三冠王になるのだが、 シーズン終盤、三冠をほぼ確定させた落合に、 稲尾監督が声をかけた。

 「オチ、お前、王さんの55本のホームラン記録をどう思ってる?」
 「別に。興味ないです」
 「今シーズン、挑戦したいか?」
 「どっちでもいいですよ。記録なんて、いつでも狙えます」
 「そうか、なら頼みがある。来季のために、ちょっと若手を試してみたいんだ。 だからお前、今シーズンはもう休んでくれないか」
 「いいですよ」

 落合はそれまで本塁打50本、残り7試合を残していたが、 快く受け入れ、その後の試合を休んだ。 (しかしその後、落合はついに王の55本を超えることが出来ず、引退後に 「やっぱりあのとき挑戦しておけばよかった」と悔しがった)
 そしてシーズンが終わり、ロッテの最下位が決定すると、突然球団から稲尾監督の辞任が発表された。 球団発表によれば 「稲尾監督が自ら辞任を申し出た」 という事だった。
 落合は憤慨した。

 「オレに頭を下げてまで来季の構想を考えていた稲尾さんが、 自分から辞めるわけがないじゃないか!!」

 そして落合はロッテの球団批判を展開し、 「こんな球団、いつでも辞めてやる!」と発言、 これがロッテフロントを怒らせ、 本当にトレードに出されてしまった。

成績不振で稲尾監督をクビにしたくせに、三冠王をクビにして、6位よりもっと成績を悪くしようとするロッテ

 あの球史に残る4対1の“世紀のトレード”は、 「読売が落合を欲しがった」「星野が落合を欲しがった」と言うよりは、 「ロッテが落合を追い出した」のである。 (これには後日談があり、 落合の放出は次期監督・有藤道代を担ぎあげる一派が、 有藤のカリスマ性を高めるために、 「ミスター・オリオンズは2人もいらない」 と落合を追い出した、というのが定説になっている (星野仙一が最初の名古屋一家元締めに就任したとき、 自分の権力を誇示するため、年上の谷沢を辞めさせたのと同じである))

 この年のオフ、 ロッテ球団批判→世紀のトレードと球界の話題を独占した“問題児”落合だけに、 本書『なんといってもオレ流さ』は当然、クローズアップされただろう。

 マスコミが “オレ流”落合 という言葉を使い出したのは、このときではないか、 とsato23は見ている。
 ここで落合が言ってる“オレ流”というのは練習方法についてだったが、 マスコミはこの言葉を 「ロッテ球団と衝突したののは落合の自己中心的な性格のせい」 として報道するために、 「落合=オレ流=自分勝手」と、彼らが作る報道に都合のいいよう、 言葉を利用したのだ。

「オレ流」のルーツが明らかに!


 なお、せっかく読んだのだが、本書に書かれている技術論・野球論については触れない事にする。

 なにせ今から18年も前に書かれた本だ。 今とは元締めの考え方も違っている部分もあるだろう。
 たとえば、この頃の元締めは 「練習なんかオレは大嫌い。何もやらなくても三冠王取れちゃうんだから、何もやらなくていいじゃないか」 と言っているが、今は 「練習は絶対に人を裏切らない。 人が1000本素振りすれば、オレは2000本の素振りをやったものだ」 などと、いけしゃあしゃあと抜かしているのだ。

 「だから落合はウソつきだ」「いい加減だ」というのではない。
 18年も経てば考え方なんて変わるものだ (むしろ変わらない人の方が、問題があるだろう)。
 なので、18年も前に書かれたことを、 「なるほど!落合はこういう考え方なんだ!」 と絶賛したり、「なんと!落合はこんな考え方なのか!」と批判したりするのは、的外れというものだ。
 人間は変化するもので、大事なのは過去の考え方ではなく、今の考え方である。

 しかし、人間と違い、メディアは変化しない。 個人(=記者)の意思に関係なく定められた“社風”はあっても、 ときに流動的な“考え方”というものは存在しない。 人の考え方と違い、輪転機が回りプリントアウトされた文章は、 何年経っても変化することはないし、成長することもない。
 だからマスコミは、 この頃の落合のイメージをそのまま18年後の今日まで引っ張り、 人と違う部分を探し出しては、 「出た!オレ流だ!」「またオレ流だ!」と書き立てる。 そしてそれは、 「もしその失敗したら、全部オマエのせいだ」という無意識の悪意を含み、 18年前と同じに、 落合は自分の使った言葉を、 意図したところとは違う形で無断使用されているのだ。

 げに貧しきは、マスコミの進歩の無さである。


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