きみのゆくえ
2002-2003
2003.1.17 update

バンチ(中日→[自由契約])
練習嫌いが監督・コーチに嫌われ、 キャンプ中から新聞のインタビュー記事ではバンチに対する厭味がチクチク・ネチネチと掲載されていたが、 やっぱりと言うか、シーズン途中で怒って帰ってしまった。 球団は「原因不明の心臓の動悸」と言っているが、 要するに「ムカついた」のであり、 「心臓の動悸」とは広報もうまい事を言ったものだ。 バンチ登板の日で負けると、 (日本語が分からないと思って)すぐ 敗因をバンチに押し付ける監督インタビュー は名物となっていた。

ゴメス(中日→[自由契約]→中日→[自由契約])
クビにされたり呼び戻されたり球団の都合でいいように振り回されたゴメスだが、 02年はケガと戦いながら試合に出る中、球団がシーズン途中で (優勝戦線からは既に完全に乗り遅れていたにもかかわらず、「優勝への秘密兵器」と言い出し) リナレスを獲得。 「これでゆっくり出来る」とケガの治療のため途中帰国すると、 治療のために帰国したのに「手術したらクビ」 と球団から理不尽な引退勧告。 要するにリナレスが獲れたからポイ捨てされたのだ。 リナレスのその後の成績は周知の通りで、 ファンの間では「またゴメスに頭を下げて復帰か?」と囁かれたが、 それだけはイヤな球団は、 ゴメスと同じようなタイプではるかに格下のクルーズを獲るという錯乱振りで チームの勝利より一部長のメンツを優先 した。

ブレット(中日→[自由契約])
ブレットもまたティモンズ同様に「当たれば儲けもの」と獲得され、 「当たらなかったから」解雇された中日のバクチ補強の犠牲者。 ディンゴがクビになったときの捨てゼリフ、 「中日はオレをソーサかマグワイアだと思っていたようだ」 というナイス・コメントは、中日の場合多くの外国人選手に当てはまる。 無差別に外国人をさらって来ては役に立たないと言って放り出し、 それでいて拉致してきた当事者(=編成責任者の児玉本部長)についてはお咎め無し。 今日もどこかで外国人が、目的もなく拉致される。 「球界の北朝鮮」とも呼ばれている中日に、 明日あなたが拉致されないという保証など何処にもないのだ。 ブレットは現在、台湾球界復帰を目指して頑張っているそうだ。

呂 建剛(中日→[自由契約]中国・天津)
“アジア球界発展のために”と大義名分を打っては 台湾・韓国・中国の選手を青田買いしていつも中途半端に終わる中日。 郭源治で一回だけ成功したことで、柳の下からドジョウを何匹すくうつもりなのか。 中国人初の大陸出身プロ野球選手となった呂だが、 メディカル・スタッフの無機能振りでは球界トップクラスと言われる中日 に入ってしまったのが運のツキ。 入団1年目で気持ちよくクラッシュし、 自慢の150キロストレートを一度もお目見えすることなく日本を去ることになった。 ジャニーズのアジア進出にも似た話題作りの犠牲となった呂は、 2003年から発足する中国プロ野球・天津ライオンズで再起をはかる。

曹 峻揚(中日→[自由契約]台湾・統一)
00年オフ、一向に決まらない中日の新外国人獲得の焦りから、 とりあえず手近なところで間に合わせた フロントの手抜き補強の犠牲者。 ルーキーで台湾MVPを獲ったが、登板過多で肘を故障していた。 中日もそのことは了解済みで、「故障は完治する!」と さしたる根拠もなく 言い切って獲得したものの、 完治することはなかった。 03年から古巣の台湾・統一ライオンズに復帰する。 余談だが、中日は度重なる2軍での故障者続出に、 01年オフに「リハビリ専用の3軍を作る!」と中日にしては珍しい将来を見据えた素晴らしいアイディアを出したが、 星野監督の阪神行きに伴う島野コーチのゴタゴタで、 得意のやっつけ人事が炸裂、3軍スタッフを2軍に回し、3軍計画を「なかったこと」に してしまった。その後はご存知の通り、2軍の故障者は増えるばかりで、 球団は何の手も打っていない。

大豊 泰昭(中日→阪神→中日→[引退] 野球教室のおじさん)
本人は現役続行を希望したが、さすがに球団の温情もここまで。よくこの歳まで頑張った (阪神にいればもう1、2年は頑張れただろうが、本当にここ数年は大豊にとって巡り合わせの悪い流れになった)。 入団時の経緯 (91年ドラフトで中日は、 外国人枠のルールの隙間を突き、大豊を日本人扱いするために球団職員として囲い込んだ。 さらに、業界の慣例として「囲い込んだ選手は1位指名する」のが暗黙の了解にも関わらず、 中日はそれを無視してプロ拒否を宣言していた今中を強行指名、大豊を2位指名して他球団のヒンシュクを買った。 この中日の行動のせいで「球団職員をドラフトで獲ってはいけない」というルール改正まで行われた) を考慮してくれたか、引退後は中日のスカウトになるという話だったが、 何だか「スカウト部付少年野球担当」とかいう、 よく分からない部署 に回されてしまったようだ。 少年野球教室を回ってチビッコファンを増やす仕事みたいだが、 立場的にはドアラやシャオロンに与えられている役割と一緒 か。「韓国渉外担当」という肩書きで放りっぱなしの宣銅烈と同じ扱いといえる。

藤井 優志(中日→[自由契約] ブルペン捕手)
谷繁の勝手な契約により、 中日キャッチャー冬の時代 が続いている。 中野と清水と柳沢もさっさと辞めた方が自分のためだ (テキスト執筆時は「鈴木と〜」の文字列も入ってたんですが、 賢い鈴木は本当に辞めてしまいました)。 引退後は中日のブルペン捕手になるとのことで、 これからも歯に衣着せないブルペントークが期待される。 児玉部長は自分の お気に入りの選手と飲みに行って、 お気に入りの選手の言葉を聞いて、 お気に入りの選手を試合に使うようベンチに進言 するばかりでなく、変装して2軍のブルベンにでも行き、 選手の本音トークを聞くべきだ。

鈴木 郁洋(中日→近鉄)
00年シドニーオリンピック日本代表。 大学時代は強肩・俊足で知られ、プロ入り後は「史上初の捕手の盗塁王」 と期待を膨らませたが、バッティングが驚くほど貧相で、 そもそも塁に出ないから盗塁どころではない。 本人も「バッティングは期待しないで下さい」と 半ばやけくそで捕手のスペシャリストを目指す。 中日では中村武志の存在で消化試合しか試合に出してもらえなかったが、 そういうときに限って先発が小山 だったりして、自分では売りにしている得意のリードも、 構えたところにボールが来ずではいいところ無し、 レギュラー獲りはならなかった。 02年谷繁がFAで入団してからは、 谷繁の天皇契約のおかげで消化試合すらマスクを被ることは許されなくなり、 オフに志願して近鉄に移籍する。 趣味は門倉先輩の追っかけ。

辻田 摂(中日→[自由契約])
PL出身で福留とは同級生。 東洋大を中退後、テレビの企画 (アサヤン)を利用して98年に渡米、 3Aデビルレイズ、1Aパイレーツなどを転々とする。 99年オフに日本に帰国し、読売のテストを受けるが落選。 01年オフにレベルを下げて 中日のテストを受けてみたら合格。 入団時は「また福留とプレー出来て嬉しい」といったような事を言ってた気がするが、 ついに公式戦で福留と一緒にプレーする事はなかった。

川添 将大(中日→[自由契約])
入団1年目、2軍の練習場で遠藤・小山らが手抜き練習で遊んでる中、 ひとり黙々と練習してる姿が印象的だった。 プロ野球生活の思い出は「特に無い」そうだ。

井本 直樹(中日→[自由契約] 打撃投手)
ケガにより来季登板の見込みが立たないため、 「回復次第で来季再契約」という条件で一時的に自由契約となった。 が、1年間という約束で台湾に島流しされた金森・白坂、 グラウンドキーパーとして復帰を目指した山田広二、 いったん保留選手扱いにされながら広島に捨てられた佐藤康幸の例を出すまでもなく、 つまりは「70人枠を空けるための体のよいクビ切り」 で、予想より回復具合が早かったときに他球団に持っていかれたくないため、 身柄を拘束しているだけだ。 「エサを与えない飼い殺し」とでもいったところで、 選手にしてみればプロとしてのプライドは木っ端微塵。 辞めちゃえばいいのに。

久慈 照嘉(阪神→中日→阪神)
00年オフ、01年オフと契約更改の席でトレードを希望をしたものの、 久慈を飼い殺したい&タダで出したくない球団の強突く張りな方針の犠牲になり、 全盛期をベンチで過ごした。 02年は、山田監督の「ベテランをベンチで腐らす真似はしない」 との言葉に張り切ったが、それは 山田監督いつものカッコつけのウソ。 ベテランにチャンスは与えられなかった。 このオフ、ようやく念願の自由契約になり阪神に移籍。 年俸は2500万円までダウンした。それにしても。 99年は同じくらい活躍し00年以降は同じくらい活躍してない関川と、 何処でどう間違ってここまで年俸格差が広がってしまったのだろう。 関川は実力でポジションを奪われたが、久慈の場合、そうではないのだ。

波留 敏夫(横浜→中日→ロッテ)
01年、森監督との確執から横浜で飼い殺しになり、 「使わないなら是非ウチに」と、 自分とこでもどうせ使わないくせに中日が獲得。 「補強ポイントでない部分を補強」というのは児玉部長が事実上の実権を握ってからの中日のお家芸。 もちろんこんな素人による名ばかりの補強がチームに影響を及ぼすわけもなく、 2年も経たずにあっという間に再トレードとなった。 結果的に「種田←→酒井」という ベテラン内野手同士の間接トレードになった訳だが、 報道では「外野手が欲しいロッテと、 ベテラン内野手を補強ポイントに掲げていた中日 の間でトレードが成立」と 仰天記事 が流れていたが、それ(=中日がベテラン内野手を補強ポイントにあげていた)が事実とするならば、 今後も中日フロント主導の無駄なトレードと無駄な犠牲者は増え続けて行くばかりだ。

山崎武司(中日→オリックス)
出すなら去年FA宣言したときに出せばいいのに、 わざわざ引きとめ3年契約を結んだ挙げ句、試合では使わない、 来季も戦力として計算してない、 そのくせ山崎と同じタイプの一発屋・クルーズを獲得といった迷走振りで、 野球における“補強”の概念を根本から覆した 新時代のドラゴンズの犠牲者。 00年にアベレージヒッターに変身しかかっていたが、 フロントが 「君に求められてるものは派手なホームランだから」 と山崎の大幅年俸アップ要求を棄却。 「ああ、やっぱりオレは打率より一発なんだ!」 と取り返しのつかない勘違いをしてしまった山崎は、 ホームランバッターを夢見るスーパー扇風機と化し、 挙げ句球団に粗大ゴミとして捨てられることとなる。

吉鶴 憲治(中日→ロッテ→[自由契約] ロッテ2軍コーチ)
96年オフに与田とセットで森廣ニ・内藤と2対2のトレードで中日からロッテに。 河本専用キャッチャーとして活躍。中日ファンには 「吉鶴が1軍マスクをかぶるようなロッテ」 と移籍後もファンの話題にのぼる人気選手だった。 その後、知らない間に外野手にコンバートされていたが、 そもそも捕手を追われた理由が「肩が弱いから」という理由だったので、 外野手ではなおさら活躍できなかった。

酒井 忠晴(中日→ロッテ→中日)
95年オフ、仁村徹+酒井+山本保=前田幸+平沼+樋口で3対3のトレード。 実質的には前田幸長と仁村徹の大型トレードのオマケ でロッテに行った。中日は酒井放出により、 正遊撃手に鳥越がおさまるという面白い冗談 をフルシーズンかけて見せることになる。 鳥越はある意味では久慈より堅実な守備と、 山崎武司が頼もしく見えるほどの勝負弱いバッティングで ファンを唸らせたものだが、その鳥越よりも「守備が上手い」と言われたのが酒井だ。 なのにポジションを鳥越に奪われたということは、要するに バッティングは鳥越以下だったという事だが、 しかしロッテでは主力として活躍、中日ファンには 「酒井が4番を打つようなロッテ」とまたも揶揄されたものだが、 「センイチにトレードで出された」という実績を買われ、03年から中日に復帰する。

椎木 匠(中日→ロッテ→西武)
91年、中日にドラフト外入団。 ドラフト外のためファンページなどで見られる 「歴代入団選手一覧」のデータベースには掲載されていない 事も多く、 “まぼろしの選手”と呼ばれる。 同じ年の入団・同じ誕生日の中日・井上と仲がいいが、 ロッテ移籍後は泥棒髭をたくわえすっかりヤクザ顔になり、 「怖い顔」でも井上にライバル意識ムキ出し で、今後の芸能活動が注目される。03年より垣内との交換トレードで西武に移籍。

原田 政彦(中日→日ハム→[自由契約])
「打撃は一流、守備は三流、ギャグ五流」といわれた永遠の若手・原田。 中日時代、ファンからは「若手が育ってくれれば」「原田は期待できる」と何年経っても若手呼ばわり、 結局鳴かず飛ばずで、大島監督に呼ばれ日ハムに行ったが、 大島監督の退任とともに生涯を終えた。最近では 幕田が「第二の原田」になって来ている。

市原 圭(ダイエー→中日→近鉄→[自由契約] サラリーマン)
91年、上宮高からダイエーにドラフト8位で入団。 上宮では元木・種田の仲悪コンビの2年後輩で、中村豊・薮田とは同級生 (2年先輩の世代に比べ、プロ入り人数はそう変わらないものの、ものすごく地味だ)。 93年オフに自由契約になり、中日にテスト入団した。打撃は 近鉄に出されるくらいだから 言わずもがなとしても、 いわゆる「守備の人」として部分的に活躍。 中日の遊撃は立浪が腰痛で二塁コンバート後、 種田・酒井・鳥越・神野・森野・J.LEEと レベルの低いポジション争い が繰り広げられており、 市原にも十分チャンスはあったが、 阪神から中日に久慈が移籍して来たことでショート戦国時代にピリオド。 98年シーズン途中に近鉄に金銭トレードされた。 02年オフに戦力外となり、スポーツ用品メーカーに就職。

清水 雅治(中日→西武→[自由契約] 西武コーチ)
中日からよそに行った選手はナゴヤ人の怨念により活躍しないのが普通だが、 他球団で花開いた珍しい選手。 89年にドラフト6位で中日に入団したあと、 95年オフに前原とセットで村田・山野と2対2のトレードで西武に出された。 はっきりいえば、 高木守道のマイナス遺産(=前原)の処分のついでにセンイチに切られた のである。このトレードは一般的にはセンイチに非難が集中しているが、 前原なんかをここまで残しておいた守道も悪い。 移籍先の西武で、清水は足のスペシャリストとして大ブレイク。 中日が後に「ブン回し扇風機集団」→「機動力野球」へとチェンジを試みたとき、 清水がいればかなりの戦力になったと思われるが、 それはそれできっと前原もまだいたと思うので一長一短だ。 今季から西武の守備走塁コーチに。

佐藤 秀樹(中日→西武→ヤクルト)
92年のドラフト1位。高木守道監督時代は「ドラフト暗黒時代」と呼ばれ、 この期間に集中してハズレが多い。 ここ数年、中日は 「活躍してるのはベテランと若手だけ」 と言われているが、 中堅がすっぽり抜けているのはこの高木時代のドラフト戦略の失敗によるもの。 高木監督は「私は与えられた戦力でやるだけ」と補強に全くの無関心だったため、 結果フロントの言うがままに将来性のないチームが出来上がってしまい、 その当時 将来性がないぞと言われたチームの将来の姿が今の中日 だ。 02年オフ、西武を戦力外になり、ヤクルトにテスト入団。

武田 一浩(日ハム→ダイエー→中日→読売→[引退] 会社役員)
87年ドラフト1位で日ハムに入団。 「中継ぎの評価が低い」とよく球団とモメていたが、 95年オフ、厄介払いで松田と共に下柳・安田と2対2のトレードでダイエーへ。 98年オフにFAでで中日に移籍した。 このとき、読売のオファーを蹴った事で一躍男になったが、 3年後、中日を自由契約になると 去年の分の税金を払うため 嫌々読売に入った。現在、OA機器リース会社役員として就職したらしい。競馬場で逢おう。

光山 英和(近鉄→中日→読売→ロッテ→横浜→[自由契約])
83年ドラフト4位で近鉄入団。 近鉄時代は梨田・山下らと正捕手争いし、日本シリーズにも出場している。 的山・古久保の台頭で96年オフに中日に金銭トレードで出されたが、 中村武志の存在により出場機会は少なく、 99年シーズン途中、村田真のケガで錯乱した読売に 吉原と交換という意味なしトレード で売られて行った。 その後、00年オフに読売を自由契約になり、テスト入団でロッテに移籍。 01年オフにロッテを自由契約となると、 合同トライアウトに参加するも獲得球団はなく、これで引退かと思われたが、 その年、横浜では、谷繁のFA流出で獲得した中村が春季キャンプで早々と故障、 オープン戦もたけなわの3月になって光山に白羽の矢が立った。 「優勝を狙うにはベテラン捕手の存在は不可欠」が森監督の持論だが、 02年オフ、その森監督が親会社のTBSにクビをチョンパと切られると、 連鎖的に光山もお払い箱になった。 韓国に行ったという噂が流れているが、現在は消息不明。
【追加情報】(1/17)
韓国・ロッテジャイアンツに亡命したらしい。

鈴木 平(ヤクルト→オリックス→中日→ダイエー→[引退])
87年ドラフト3位でヤクルトに入団。94年オフに山内とのトレードでオリックスへ。 山田久志コーチのもと、切れのいいスライダーで中継ぎ・抑えとして活躍、 96年の日本シリーズでは全4勝中4試合全てでセーブポイント(日本記録)をあげ、 オリックスの日本一に貢献した。 99年オフ、河野・岸川との2対1の交換トレードで中日に移籍。 しかし、 いまだ成功したのを見たことがない山田−オリックスライン の補強はまたも失敗に終わり、01年に戦力外。テスト入団でダイエーに移籍した。

日笠 雅人(中日→ダイエー→[自由契約])
高校時代は中継ぎとして甲子園経験有り。 大学に進学したが、在学中に両親が倒れ、中退して新日鉄君津に。 そんな家庭環境にも関わらず、95年ドラフト7位で中日に指名されると、 「プロとしての金は活躍して稼ぐ」 と言い張り契約金ゼロで入団、 その言葉通り1年目から27試合に登板、初登板初勝利を上げ、 オフにあらためて契約金1000万円をゲットし、星野監督に 「これこそ本当のプロ」と言わせた。 98年には貴重な中継ぎ左腕として46試合に登板、 防御率1.87で中日のリーグ2位に大きく貢献した。 しかし、その後2年ほど低迷すると、 こんな気持ちのいい青年を中日球団はあっさりとクビ。 その後、ダイエーにテスト入団するが、そこも2年で自由契約。 このオフは合同トライアウトに参加、 メジャーのテストを受けるために渡米と、現役続行に意欲を見せている。

前田 勝宏(西武→米3A/2A→中日→台湾・興農)
92年ドラフト2位で西武入団。西武ではパッとした成績を残せなかったが、 メジャーでの野茂の活躍に刺激されたか97年、 突如「オレはメジャーに行く」と言い出し渡米。 一応ヤンキースに入団したはずなのだが、3Aと2Aの間をうろうろしてたようだ。 後先考えない動物的行動は新庄と変わらない が、新庄と違い日本での実績もなく、新庄と違いメジャーでの実績も残せなかった。 新庄が 「ちょっと調子がよくて周りからチヤホヤされると、すぐ高いところに昇りたがるお調子者」 なのに対し、前田勝は 「さして調子もよくなく周りもチヤホヤしてないのに、高いところに昇りたがるお調子者」 といった感じか。 最終所属は2Aノーウィッチのはずだが 大本営発表では「3Aコロンバスから移籍」となっていた。 売りは150キロ近いストレートという事だが、 そのスピードを見た者はいない。 01年オフに自由契約。現在は台湾・興農でプレーしているが、 本人は日本での現役続行を希望しており、今年も合同トライアウトに参加した。

白坂 勝史(中日→台湾・兄弟→中日→[自由契約])
97年ドラフト7位で中日入団。 「この順位で白坂を獲れるとは思わなかった」(球団関係者)、 「(今年のドラフトは)満点だ。白坂が獲れたんだから、120点だ」(星野監督) 「最多勝と新人王を獲ります」(白坂) など、 数々の名言 が生まれる。 99年シーズン途中、 リリアーノの獲得で70人枠をオーバーし、その余波で切られるという屈辱的な処遇 で台湾・兄弟に「野球留学」という名目で国外追放された。 帰国後、中日球団は(金森のときと同様)1年だけ登録してすぐにポイ捨て。 白坂はその後消息を経っていたが、 2002年オフ、第1回トライアウトの参加者リストに名前があったところをみると、 日本球界復帰の意思は持ち続けている様子。 しかし、第2回トライアウトはエントリーはしたものの当日になって欠席。 佐野と共に再び行方をくらました。

佐野 重樹(近鉄→中日→独立リーグ)
90年ドラフト3位で近鉄に入団。主に プレー以外のところ で人気を博し、97年には映画『恋と花火と観覧車』(秋元康企画・脚本)にも出演する。 00年オフ、わがままな小池を出したい大阪近鉄と、 嫁にそそのかされて大阪転勤を願い出ていた門倉のトレードに巻き込まれ、 3対3のトレードの数合わせとして放り出される。 が、1年でクビ。 本人は現役続行を希望するが、各チームの入団テストに落ち、 渡米した。メジャーの入団テストは落ちたものの、 野球をやりたいという情熱でアメリカに残り、独立リーグ・エルマイラパイオニアーズでプレー。 01年オフに帰国しロッテのテストを受けるが不合格。 再びアメリカに渡りドジャースとマイナー契約を結ぶ。 しかし昇格したという噂は聞かず、 それどころかいつの間にかメキシコに渡り、 メキシカン・リーグのメキシコシティ・タイガースで投げていたり、 気がつけば野茂がオーナーになっていた古巣・エルマイラに戻っていたりと、 世界各地で佐野の目撃レポートが報告され、ついにこのオフには 「合同トライアウトで見た!」と日本での目撃報告 もされるなど、 「まぼろしの選手」としてますますミステリアスな活動 を続けているようだ。