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ソハの地下水道


ハーイ、皆さん!今日は黙祷しましたか?(僕はバッチリしましたよ!)(ツイッターで!)

あれって十四時四十七分〇〇秒ちょうどにやるのがルールなんですよね。 「黙祷」ってあらかじめ入力しておいて、 時計を見ながら時間ぴったりにリターン!(ドヤ顏で)
タイムラインでは誰が一番に黙祷ツイート出来たか競争です! (フライングした人は顔文字で誤魔化せ!) (でも正確には十八秒らしいよ!) (全員フライング!)

そしてツイッター検索で 「黙祷なう」 「ツイッターで黙祷って言ってるやつ、ぜってー黙祷してねえよな」 という他人同士の熱い黙祷バトルを眺めるのが今日という日です!


☆   ☆   ☆   ☆


さて、僕は「人は何のために黙祷をするのか」をいつも考えてるのですが。

黙祷しない主義の人もいます。
「あの世なんてないから」「目をつむったって何も変わらないから」 「自分とは関係ない人だから」 「祈るより行動すべき」 「忌日なんて、そのとき地球が太陽に対してどの位置にいたかという座標に過ぎない」

たとえば、知らないところで知らない理由でゴー・トゥ・ヘヴンした知らない他人のことは黙祷しませんよね。 でも、暴走自動車にひかれそうになった自分を助けてゴー・トゥ・ヘヴンした伊達直人のような人には、 いくら黙祷しない主義の人でもさすがに黙祷するでしょう!

    (ところで、「暴走自動車に轢かれそうな女の子を助けてゴー・トゥ・ヘヴン」 という漫画みたいなことをした人が実際にいます) (ポーランド人のレオポルド・ソハという人です) (そのソハの物語が『ソハの地下水道』です!) (まさか、ここで映画の紹介とは!) (そして映画の話題はこれで終わりなのである!) (何だって!映画の中身は!?) (面白かったよ!)

この場合の黙祷は「自分の身代わりになった」相手に対する罪悪感です。 そう考えると、黙祷は「サヨナラも言わずにいなくなったアイツのために」やるのではなく、 「自分のために」やるものと言えます。

戦没者への黙祷も、自然災害被害者への黙祷も、飛行機墜落事故被害者への黙祷も、一緒です。
「まかり間違えば自分が犠牲者だったかも知れない。自分は運がよかっただけだ」 という「生き残ってしまったこと」への罪悪感から、人は黙祷をするのです。
「俺よりも全然立派な人、これから立派になる人もいただろうに、俺なんかが生き残ってしまった」
「あなたの死を背負って、私は生きていきます」

三年前の地震で、僕が被害者にならなかったのは、たまたまです。 何かの理由で東北に行っていたかもしれないし、 あるいは太平洋プレートの気まぐれで地震と津波は東京を襲っていたかも知れない。 いま、僕が生きてるのは自分の力ではなく、 「たまたま地震被害に遭わなかった」という偶然であり、 生き残ってしまった者の義務として、自分は何をしなければならないのか。

黙祷の一分間は、そういうことを考えるためにあるのです。


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ということで、「人的被害のあった日本の地震」を調べてみました!

平成に入ってからだけで二十四件ありました! (つまり地震被害者の忌日は年間二十四日あるということです!)(平成だけでです!) (昭和も含めようと思いましたが、数が多すぎて集計が面倒なので断念しました!)

「東日本大震災より被害者が少ないから、阪神淡路大震災は黙祷しなくていいよね?」
という人はいないでしょう。 黙祷は被害者の数で決めるものではありません。 数万人だろうと一人だろうと同じです!

だから犠牲者が一人だけの地震でも、黙祷をするのは当然です!

三月は、十一日(東日本、被害者多数)、十二日(新潟・長野、被害者三名)、 十四(千葉、一名)、二十日(四国・九州、一名)、 二十四日(広島、二名)、二十五日(石川、一名)がそれに当たります!

明日も日本中が黙祷するでしょう! レッツ・黙祷! 俺も頑張って黙祷するぞ!

(日清戦争・日露戦争・太平洋戦争・日航機墜落・戊辰戦争・酒田大火と、 黙祷デーはまだまだいっぱい!)

(2014.03.11)


原題In Darkness
邦題ソハの地下水道
公開/製作2011年ポーランド・ドイツ・カナダ
出演 ロベルト・ヴィエツキーヴィッチ(ソハ)、ベンノ・フユルマン(ムンデク)、アグニエシュカ・グロホフスカ(クララ)、マリア・シュラーダー(パウリナ)、ヘルバート・クナウプ(イグナツィ)、キンガ・プライス(ソハの妻)
監督アニエスカ・ホランド

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