背番号/名前一覧

Update 2003.7.11 Staff Profile [84]〜[95],[98]
Update 2003.7.2 Staff Profile [80]〜[83]
Update 2003.7.2 登録名変更 [64]大塚晶文→[64]大塚晶則
Update 2003.7.1 Staff Profile [70]〜[79]

監督/コーチ/裏方
70塚本 洋
71山田 久志
72加藤 安雄
73鹿島 忠
74二宮 至
75佐々木 恭介
76近藤 真市
79大橋 穣
80河村 健一郎
81豊田 誠佑
82金田 進
83音 重鎮
85都 裕次郎
86川又 米利
88仁村 徹
89高橋 三千丈
90三木 安司
91早川 和夫
92宣 銅烈
93中原 勇一
95山田 和利
97長谷部 裕
98芹沢 裕二
105松浦 正
110坂田 和隆
111平沼 定春
114奥田 修
115清水 治美
116高橋 俊春
117小林 亮寛
118永田 能隆
119佐藤 康幸
121三輪 敬司
122藤井 優志
123井本 直樹
124西 清孝
126竹内 昌也

70 塚本 洋

 2軍トレーニングコーチ。西武台千葉高−大体大−松下電器−03中日。プロ経験なし。
 大体大卒業後、社会人・松下電器野球部でコンディショニングコーチを5年勤め、2003年から中日トレーニングコーチに。 松下電器野球部出身のプロ選手には、OBに福本豊(阪急)・山口高志(阪急)・ 古池拓一(左の二人と並べるな)、 現役に潮崎哲也(西武)・小池秀郎(近鉄)らがいる。 上原(読)と同い年なので、大体大時代は同級生…おっと、上原は1年浪人してるので、 塚本が1年先輩になる。

71 山田 久志

 1軍監督。能代高−富士鉄釜石−69阪急−88引退−94オリックス96−99中日。
 現役時代はその華麗なアンダースローのフォームから「ミスター・サブマリン」と呼ばれる。 その名に恥じず、監督になってからは貯金0を中心に、沈んだり上がったり沈んだり上がったり。
 阪急ブレーブスのエースとして日本シリーズにも多く出たが、 いつも読売にコテンパンにやられ、 そのときの屈辱から「打倒・読売」に闘志を燃やしている(東北の人間は根に持つのだ)。

 98年オフに読売から投手コーチを打診されたときは、 「(ダメな理由は)1個や2個じゃない、100個くらいあります」 と記者会見で言い放ち、アンチ読売派の喝采を浴びた。 その会見を見た中日・星野仙一監督(当時)がその日のうちに山田久志にコンタクト、 中日の投手コーチを要請する。 山田は「たったいま読売のコーチを断ったばかりなのに、 同じリーグのコーチを受けるわけにはいかない」 (東北の人間は義理固いのだ)と固持したが、 センイチに一晩がかりで説得され、コーチ就任を承諾した(東北の人間は切り替えが早いのだ)。

 酒を飲めないセンイチと違い、のんべで有名。 春季キャンプでは 「コーチ会議は屈託のない意見を出せるよう、酒を飲みながらやろう」 だとか、 「選手・コーチ間のコミュニケーションに、飲み会をどんどんやろう」 などと、何かと理由をつけてはすぐに酒を飲みたがる (東北の人間にとって酒は水と同じで、飲まないと死んでしまうのだ)。

 現役時代のエピソードも勇ましい。 翌日に登板を控えていた山田久志だが、 前日から降り続く雨に「こりゃ明日は中止だな」と 六本木で朝まで痛飲した。 ところが、店の外に出ると雨はすっかりあがっている。 「や、やばい!」とばかりに、 山田は夜明けの六本木から宿舎まで、アルコールを抜くためにランニングで朝帰りした。
 その日の試合、先発した山田は酒の抜け切らない体でも、何とか勝ち投手になった。 その試合後のミーティング。西本監督はナインに向かい、 「俺は今朝、山田が皆が寝ている時間から早起きして、ランニングをしているのを見た。 先発投手は山田を見習わんといかん!」と訓示をたれたという。

72 加藤 安雄

2軍バッテリー総合コーチ。倉敷商高−明治大−熊谷組−76阪急−80引退−81阪急85−87中日91−92阪神94−95中日98−00中日。 倉敷商→明大、つまり阪神・星野監督の後輩。 「センイチの後輩」「中村武志の育ての親」ということで、 アンチ星野・アンチ中村さんには決していいイメージでは語られないが、 ファンに対する人当たりはよく、 2軍ストーカーに人気がある。

73 鹿島 忠

 2軍投手コーチ。鹿児島実高−鹿児島鉄道管理局−83中日−96引退-01中日。
 88年優勝時は炎のストッパー・郭源治につなぐ重要なセットアッパーとしてフル回転の活躍。 当時の雄姿を知らないファンのために99年優勝でたとえると、 勝ち試合でも負け試合でも投げるので、岩瀬というよりはむしろ正津・前田幸長のようなイメージ。

 前田のようにマウンド上の態度も無意味にデカく、 打たれても飄々としていた。 マウンドでチューイン・ガムを噛みながら投球するので、紳士球団のOB解説者に 「本人はメジャーリーガー気取りなんでしょうが、日本人がやると格好よくないですよ」 と投げるたびに言われていたが、 クソバケボケ球団のOBが眉をひそめるような態度で読売のバッターを三振に討ち取る様は、実に爽快ですがすがしかった。

 現役時代はエースになれなかった鹿島だが、1軍投手コーチに就任した年は、 ピッチャーに活をいれにマウンドにあがるたびに、直後にピッチャーがメッタ打ちの火だるまになる事から 「小松コーチの再来」と言われ、 コーチとしては既に小松の域には達した。

74 二宮 至

 1軍作戦コーチ。広島商高−駒沢大−75読売−83引退−98中日。
 駒大時代は中畑清・平田薫と並び「駒大三羽ガラス」と呼ばれた。 75年ドラフトで中畑が3位指名されると、平田とともに読売にドラフト外でオマケ入団 (中畑が推薦したと言われている)。 引退後は、少年野球「目黒西シニア」の監督をつとめ、全国3位の成績を残す。 いやまさか、いくら中日とはいえ、まさか少年野球の監督としての手腕がプロでも通用する と評価して取ったわけではないだろうが、 そう思いたいが、それ以外に理由が思いつかないタイミングで現役引退から15年も経ってから中日にコーチとして招聘された。

 しかし、やっぱりプロと少年野球では違うのか、 それともリトルシニアが学ぶような知識技術は中日の選手には難しすぎるのか、 今季は作戦失敗(しかもサインの見落とし・勘違いなどのミス)が目につく。

75 佐々木 恭介

 1軍ヘッド兼打撃コーチ。柏原高−新日鉄広畑−72近鉄-82引退−84近鉄89−91阪神92−96近鉄99−01西武−02中日。
 近鉄監督時代は、入団拒否を宣言した福留孝介(PL学園、現中日)を8分の1で抽選を当て、 「ヨッシャー!」と奇声をあげたが、やっぱり入団してもらえず赤っ恥をかいた。

 当時の近鉄は イチローに対する危険球が異常に多い ことで知られ、当時、佐々木監督の人間性についてさまざまな憶測が飛んだ。 そして99年、ついにイチローがブチ切れる。 対近鉄戦、この日イチローは1試合で合計四度ものビーンボールをいずれも頭部付近にかすめられ、 「狙ってるのは分かっている。近鉄関係者から聞いたんだから間違いない」 と試合後に激高した。翌日、この「イチロー発言」を受け佐々木監督がオリックスに抗議すると、 あの冷静なイチローが「抗議したいのはこっちだ!」と逆ギレしたのである。

 イチローがメジャー行きを決意した理由にもしそれがあるとすれば、 現在の日本人選手のメジャーでの活躍、門戸開放に、 ヨッシャー佐々木は大きく貢献した「日米野球の掛け橋」ということになる。

 幸いなことに、佐々木コーチ就任以来、中日はまだ一度も優勝争いをしていないので、 そういったトラブルは今はない。たまに 当たって病院送りになったとしても相手チームには何の得もないタニシゲ が、何でもないスッポ抜けの死球に「狙ったな!オラー!!」と一人で怒ってるくらいだ。

76 近藤 真市

 1軍投手コーチ。享栄高−87中日−94引退-03中日。
 1987年8月9日。前年のドラフト1位ルーキー・近藤(当時18歳)は、 プロ初登板のデビュー戦で、読売相手にノーヒットノーランの快挙を達成した。 デビュー戦のノーヒットノーランは史上初、18歳9ヶ月は史上最年少の大記録である。
 このたった1試合で、近藤の引退後も含めた野球人生は保証されたわけだが、まさか 本当にこの1試合の思い出だけでメシを食うことになるとは、 当時は夢にも思わなかった。

 しかし、あのにっくき読売相手に、 ついこのあいだまで高校生だった チン毛もはえ揃ってないようなルーキーが、ノーヒットノーランをお見舞いしたのだ。 顔を見るだけでムカついた当時の読売選手・ 話すだけでムカついたドグサレ読売ファンどもを黙らせ、 プロ野球史上誰も味わったことのない屈辱を奴らにだけ味あわせたのだから、 たとえ「この1試合だけでメシを食って」たところで、何の問題があろう? この1勝には、それだけの価値があるのだ。

 あのとき、 王監督は涙目でベンチに唾をぺっと吐き、 犬の目をした山倉はベンチに座ったまま腰を抜かし、 駒田は涙とよだれと鼻水と馬づらで顔がグシャグシャになり、 原はネクストバッターズサークルで座りションベンをもらし、 最後の打者・篠塚は「あれはボールだった…。ボールだったんだ…!」 とうわごとのように繰り返すばかりだった。 (篠塚のコメントの意図がよくわからないのだが、 つまりそれは、 「篠塚の打席までの29人の打者全員が、ボールをストライクといわれ、 打者30人は全てアンパイアのミスジャッジが原因で、近藤からヒットの1本も打てなかったのだ。」 という主張なのだろうか? まさか篠塚ほどの選手が、それまで凡退を繰り返した115球の存在を無視して、 116球目に投げたたった1球のボール球が「読売が高校生にノーヒットノーランをされた理由」 だなんて、まさか思ってるわけはないだろうが…)
 篠塚のぶざまな言い訳は、さらに読売の惨めさに拍車をかけるだけだった。

 阪神ファンが何十年たっても 「思い出すなあ、バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発」 といい続けるように、中日ファンはいつまでも 「思い出すなあ、あの近藤のノーヒット・ノーラン」 と、孫の代まで語り続けるだろう。

1987/8/9(日) 1  2  3  4  5  6  7  8  9  R  H  E 
読売 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
中日 3 0 0 0 3 0 0 0 X 6 0 1
【中日】 ○近藤
【読売】 ●宮本−岡本光ー広田
【本塁打】 中日:落合23、落合24

 なお、この大記録達成に貢献した偉大な読売打線のラインナップは、 1番ライト駒田、2番ショート岡崎、3番セカンド篠塚、 4番サード原、5番センタークロマティ、6番レフト吉村、 7番ファースト中畑、8番キャッチャー山倉、といった面々で、 ただの一人の故障者もない、 当時の読売の“ベスト・オーダー”であった。

79 大橋 穣

 2軍監督。日大三高−亜細亜大−69東映−72阪急−82引退−83阪急−91中日−93ヤクルト−01中日。[おおはし・ゆたか]と読む。
 亜大ではホームラン20本を打ち「長嶋2世」と呼ばれた(今では「長嶋2世」といえばそれは 一茂のこと を指すので、 当時は賞賛する意味の呼び名も、現代では侮蔑するための言葉として使われ、 時代によって言葉の意味は移り変わるもなだなあ、としみじみ感じる)。 1968年、田淵幸一・山本浩二・星野仙一で話題を呼んだ「ドラフト当たり年」の、 指名順位第1位の東映から1位指名、つまり、 この年のドラフト全選手の中の1位指名が大橋である。 ちなみに同じ年の阪急のドラフト1位は山田久志で、 久志が1軍が負けが込み始めると「2軍は何をやってるんだ!」と言い出し大橋に責任を押し付けようとするのは、 ウェーバー指名順1位になった大橋を今でもやっかんでいるのかも知れない。

 最近、阪神で85年に続きまた「3打席連続ホームラン」が出たことが話題になってるが、 日本記録は71年の東映、作道烝・大下剛史・大橋穣・張本勲・大杉勝男による「5打席連続ホームラン」である。 しかし大橋は、いわゆる「守備の人」だったため、東映の戦力構想から外れ72年に阪急にトレードに出された。 移籍後は5年連続ダイヤモンドグラブ賞に選ばれるなど活躍、 個人記録では77年には「パリーグ最多犠打」を記録している。
 2軍監督なんかやってるより、1軍で特殊攻撃専用コーチとなって、 バットに当てる事すら出来ない1軍のヘタクソどもにバントのやり方を叩っ込んで欲しいものである。

 あっ。でも山田監督はバント嫌いなんだっけ。

80 河村 健一郎

 2軍打撃コーチ。桜ヶ丘高−芝浦工大−72阪急−82引退−83オリックス−95読売97−03中日。
 オリックスコーチ時代に、2軍に埋もれていたイチローを1軍に推挙した人物。 そのことから「イチローの育ての親」 と言われているが、イチローがブレイクしたあの“振り子打法”は、 プロのコーチ・評論家に言わせれば 「なんであれで打てるのか分からない」 と邪道扱いされているのは周知の通りで、 「イチロー育てた」という看板は、 「岩鬼に悪球打ちを教えたのは俺だ」 と言ってるようなもので、 感心していいのか呆れるところなのか判断に迷うところだ。

 そんな「打撃コーチとしてはどうなの?」と疑問符のつく河村コーチだが、 2軍選手をひと通り見たあと、 「人前で怒ったらいけない子もいれば、 逆に皆の前で怒らないといけない子もいる」と発言。そんな 指導者としてごく普通に当たり前のことだが、 山田監督がいつまで経っても学習しない人間関係の大事さ を、普通に理解しているあたりは、 無知で世間知らずの野球バカが多い球界 ではきわめて貴重な人材といえる。

 プライドの高い選手・低い選手、 褒められて伸びる選手・叩かれて伸びる選手、 放っといた方が調子のあがる選手・管理した方がいい結果を残す選手、 そういった選手たちのモチベーション・コントロール。 とかく感情に任せた言動・行動で選手に誤解されやすい山田監督だけに、 河村コーチには若手の指導というよりはむしろ、 監督の指導 が期待される。

81 豊田 誠佑

 2軍外野守備走塁コーチ。日大三高−明治大−79中日−88引退−89中日97−03中日。
 六大学時代は法政・江川のライバルで、プロ入りしてからも「江川キラー」として名をはせた。
 かたや江川は「中日キラー」として名を馳せていたが、 83年9月27日、ナゴヤ球場での対読売戦。9回裏を迎えて中日が4点のビハインドの場面で、 豊田のヒットをきっかけに、 モッカ・谷沢・大島・宇野・中尾のつるべ打ちで同点に追いつくと、 延長10回に木俣のエラー出塁で江川を引きずりおろし、大島のタイムリーでサヨナラ勝ちした。
 当時を知るファンに聞くと、 この試合のヒーローはサヨナラ打を打った大島ではなく、江川キラー・豊田なんだそうだ。
 選手としては「右の代打要員」「外野の守備固め」としてズバ抜けていた成績ではなかったが、 何しろあの江川をカモにしていたとあっては、ナゴヤではヒーローにならない訳がない。

 89年から97年までコーチをつとめ、98年からはスカウトに。 経歴を見れば気付くように、ドラフト5位の前田新(明大)・7位の都築(日大三)は豊田スカウトが持ってきた選手。 03年から現場に復帰した。

82 金田 進

 2軍バッテリーコーチ。近大附高−丸善石油−82中日−91引退−96中日。
 01年オフ、故障者対策のために球団は3軍を設置し、 山田和利コーチと金田コーチの2人がリハビリ選手の担当スタッフに抜擢された。 ところが、中日2軍監督が内定していた島野ヘッド(当時)が突然のドタキャンで阪神に移籍。 それとどう関係あるのか全く理解できないが、それに伴う人事異動で3軍が廃止 されてしまったのだ(その後は、当たり前のように毎年故障者は増え続けている。 グラウンドを戦場にたとえるなら、中日は医師をもたない軍隊だ。 ケガ人を治療するシステムもなく、「川崎はいつ復帰するんだ!」「川上はまた故障したのか!」 と騒いでみたって、それは自業自得である)。

 3軍担当の話が消えてしまった金田コーチは、 「育成担当コーチ」という 取ってつけたような閑職 (2軍スタッフは全員が「育成担当」だろうが)に回され、 たらい回しの末に、今年から2軍バッテリーコーチとなった。
 現役時代は主にブルペンキャッチャーとして活躍した金田コーチだけに、 “ミスター・ブルペン”こと長谷部の後継者として、 今年からプルペン入りした期待のルーキー・藤井の育成に注目したい。
 ピッチャーの不調や悩みをいち早く見抜き、相談相手になってやる。 2年前までは正捕手の中村さんがやっていた仕事だが、 新しい正捕手がそういう投手陣のケアを全くしない ため、ここ2年はバッテリーの呼吸がかみ合わない場面がしばしば見られる。 ブルペン捕手には投手陣の心をケアを含めた、チームにとって重要な役割が期待されている。

83 音 重鎮

 1軍外野守備走塁コーチ。星稜高−名商大−新日鉄名古屋−88中日−91広島−96中日−99引退−02中日。もちろん[おと・しげき]と読む。
 重そうな名前は寺の息子だから。若い頃からベテランのような顔立ちで、 諸行無常のプレーでファンを魅了した。

 91年、山田和+音=長嶋清幸 という2対1のいわゆる「友情トレード」で広島に。 当時、カープで正センターだった長嶋が、 既に彦野という不動のセンターがいる中日へトレードされたのだ。 どうみても不可解な、明らかに他に裏がありそうなトレードでも、 「友情トレード」で片付けてしまえば問題なし という例である。

    【閑話休題】 カッコウの子育て

     カッコウという鳥は、自分で子育てをやりません。 カッコウは産卵期になると、別の鳥の巣に卵を産みます。 巣の持ち主は、そうとは知らずカッコウの卵をあたためます。 カッコウの子が生まれるのは他の雛が生まれるより早く、 先に卵からかえります。 するとカッコウの子は、あろうことかまだ生まれてない巣の持ち主の本当の子である卵を、 蹴飛ばして木の下に落としてしまうのです。
     子供のためにえさをとって帰ってきた巣の持ち主の親鳥は、 卵がなくなってるのに気付き、大いに嘆きます。 しかし、泣いてばかりいても仕方ありません。 親鳥は今いる雛(カッコウ)を、死んだ子供の分まで愛情をそそぎ大切に育てるのです。 そして親鳥は、カッコウが大きくなり、 自分たちとは違う姿をしているのを見て、初めて「だまされた!!」と気付くのです。

 中日時代は故障がちで出番の少なかった音・山田だが、 広島に行ってブレイク。天才・前田智をもってして「僕の打撃の師匠(=音)」と言わせ、 当時の高木守道監督率いる中日戦で特に活躍し、 「中日キラー」と呼ばれた。
 そして96年、中日で生まれ広島で育って一人前になった音・山田は、 高木が成績不振で解雇され、 センイチ第二次政権になると「最初からそういう約束だった」として、 中日に戻されるのである。
 音・山田は、育成能力のない中日が、 若手育成には定評のある広島に産み落としたカッコウの卵 だったのだ。

 このトレードは、結果的に「両者ともに得をした」珍しいトレード成功例として語り草になってるが、 一人だけ大損コキ麻呂とばかりに割を食った人がいた。もちろん、高木守道である。

85 都 裕次郎
 2軍投手コーチ。堅田高−77中日−88引退−02中日。
 77年のドラフト1位入団。82年の優勝には16勝をあげ、左のエースとしてリーグ優勝に貢献した。 日本シリーズ第2戦に先発した都は、石毛(西)の打球を足に当て、炎の6球瞬殺KOで降板し、 緊急登板した藤沢公也がメッタ打ちにあい、 ナゴヤ球場でファンの暴動が起きるという微笑ましい場面も。 0勝2敗とした中日は3戦目、 前の試合でKOされたばかりの都がよせばいいのに連投で登板。 しかし足の痛みが引かず(←だったら出るな)初回いきなり2失点で 2試合連続瞬殺KO され、みんなを笑わせた(試合は鈴木孝政の好投で初勝利をおさめる)。

86 川又 米利
 1軍打撃コーチ。早実高−79中日−97引退−02中日。
 最近のファンには“ヨネちゃんの代打でトーク”で「だネ」「だヨネ」ばかり言ってる若づくりのおっさん、 というイメージが強いが、中日の“万年2位時代”には代打の切り札として活躍した。 現在のドラゴンズ打線にたとえようとしても、 ちょっと今の中日にはいない。
 それほど頼りになるいい選手だったという事なのだが、 川又クラスの「代打の切り札」が今現在いないという事は、 すなわち1軍打撃コーチが無能ということを意味し、 現役時代の川又を褒めようととすると、コーチ時代の川又バッシングになってしまうのであった。ありゃりゃ。

88 仁村 徹
 1軍内野守備コーチ。上尾高−東洋大−84中日−96ロッテ−97引退−98中日。
 83年中日にドラフト2位で入団。投手として入団したが、2年目の途中に野手に転向。 センイチが監督に就任した87年にブレイク。88年の優勝に大きく貢献した。 96年、センイチが二度目の監督就任した際に、 「お前は将来の幹部候補生、そのためには一つのチームでじっとしてたらいかん。他球団にいって勉強して来い」 と、ロッテにトレードに出される。 もっとも、このときの交換要員はロッテのエース・前田幸長(を含む3対3)で、センイチが ノドから手が出るほど欲しかった左の先発を獲るために、 「将来の幹部」というエサをちらつかせ、仁村を切った のは誰の目にも明らかだった。
 ロッテでは4番を打つこともあり中日ファンを笑わせていた仁村だったが、 2年でお勤めを終え、約束通り中日に2軍監督として帰って来た。現役時代は 「仁村の右打ち」といえば職人芸として有名で、 むしろ右にしか打てなかったが、 2軍監督就任初年度に入った1年目の井端が、現役時代の仁村を彷彿される右打ちマスターで、 「仁村2世」と当時は注目を浴びた (今では井端は、「打席に入るとすぐバントの構えばっかりする」「盗塁しそうでしない」などと、 すっかり「リー・ジョンボム2世」になっている)。

89 高橋 三千丈

 1軍投手チーフコーチ。静岡商工高−明治大−79中日−84引退−85中日95−98中日。
 静岡商工時代はエースとして甲子園に二度出場、明大では鹿取(読)とともにダブル・エースとして活躍した。 プロに入ってからは主にワンポイントリリーフなどで目立つ数字は残していないが、 「燃えよドラゴンズ79」では「♪星野 高橋強気の勝負〜」とその名を刻んでいる。

 名古屋・錦のサムギョプサル本家にJINROをボトルキープしている事で有名。 サムソンのフォーム改造はここで焼酎を飲んで酔っ払ってるときに考えついたと思われる。

90 三木 安司

 1軍チーフトレーニングコーチ。社高−中京大−83中日99−01中日。プロ選手経験なし。
 2003年の春季キャンプでは、 毎朝掲示される練習メニューに「今日のひと言」という欄をつくり、日々校長先生のように訓示を書いた。
  • 「野球は集団スポーツ。勝利は組織力」。
  • 「千里の道も一歩から」
  • 「一礼、一歩、一笑」
  • 「誰もが仕事でやっている。しかし感謝の気持ちを大切に」。
  • 「最終コーナー、上がり3ホール、7,8,9回が勝負を決める」
 ふた昔前の熱血先生みたいでちょっと気味の悪い一面もあるが、 最近はあいだみつをや326みたいな気味の悪い芸風が若者に受けてた時期もあったので、 この訓示を胸に刻んで頑張ってる選手もいるのかも知れない。 もし機会があれば、選手だけでなく監督向けにも一筆書いて、ベンチに貼って欲しいものだ。

  • 「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」
  • 「完封しろ、ホームラン打て、って言うだけならバカでも出来る」
  • 「現場の人間が、ファンみたいなことをいうな」

91 早川 和夫

 2軍トレーニングコーチ。栃木商−国士舘大−三菱重工横浜−85日ハム−90中日−93引退−97中日00−02中日。
 89年オフ、藤王+小松崎=田中幸(オオユキ)+早川で日ハムから交換トレードで中日に。 現役時代も特筆すべき活躍はなく、 コーチとしてもその能力は謎に包まれている。 「落合に毎年新球を教えている」とか、「2軍ブルペンで軽快なトークを放ち、ポスト藤井の座を虎視眈々狙っている」 など、さまざまな噂が流れている。

92 宣 銅烈

 コーチ研修生。光州第一高−高麗大−85ヘテ−96中日−99引退。
 高校時代は韓国選手権、大学時代は世界選手権の優勝投手。 85年、韓国ヘテにドラフト1位指名されるが、契約金が折り合わず社会人へ。 しかしその後、宣側の翻意により、急遽ヘテ入団に合意。 このとき韓国球界には「一度社会人野球チームに入団した者は、2年間プロには入れない」 という規定があったが、宣の実績・人気・影響力を考慮し、特例でヘテ入団が認められた (このあたりは江川の読売入団と被るところがあり、 この行為を 「へえ、宣ってそんなすごい選手なんだ!」 と素直に感心してもいいものだろうか?)。
 韓国での通算成績は11年間で146勝40敗132S。防御率1.20の数字で、 「韓国の至宝」「無等山爆撃機」と言われる国民的英雄だ (しかし、たとえば日本では長嶋茂雄や王貞治が国民的英雄と「されている」わけだが、 われわれ中日ファンにとって、そんな事実は1ミリもないわけだ。 長嶋が伝説だとかスーパースターだとかは読売ファンが勝手に言ってるだけで、 マスコミの力であたかもそれが日本人の総意のように言われるのは憎憎しい思いである。 同じように、宣の入団経緯が読売的だったことを踏まえた上で、 韓国球界が宣に対し、同じような 意図的な「伝説作り」 をしていないとは言えないわけで、 「へえ、宣って韓国の英雄なんだ!」と素直に関心してもいいものだろうか?)。
 そして日本へは読売と中日の争奪戦の結果、カネの力に勝った中日に入団。 1年目こそ不振だったものの、2年目から大活躍。 サムソン・J.LEEの相談役としてもチームに尽力した。 99年、中日のリーグ優勝にはクローザーとして大きく貢献したが、そのオフ、 上がりすぎた年俸が契約更改で折り合わず、引退に追い込まれた。

93 中原 勇一

 1軍用具担当。東筑−76中日−86引退−87中日。
 現役10年間で1軍出場は26試合。引退後、中日の用具係として一躍みんなの人気者に。 関東の球場には中原コーチ補佐のレプリカ・ユニをまとった熱狂的ファンまで出没するほどだ。
 地味な仕事なので (早川コーチや加藤コーチのようにファンや選手とダベって無駄話なんかせず、 いつも黙々と仕事をしている)エピソードは少ないが、 そんな中、かろうじてググって引っかかったお話をひとつ。
     チームが到着する前、横浜球場で捕手の防具にワックスをかけている男が一人いた。 中原コーチ補佐である。泥を落としていたのは自分より10歳も若い中村のもの。 「宿舎には持って帰れないし、球場に着けばすぐ練習ですから」という返事だった。 捕手出身だけに、新たな気持ちで投手をリードしてほしいという願いも込めていたはずだ。
     14年前、ドラ番になった私は用具係だった彼と出会った。 キャンプで「練習に付き合ってくれと言われれば、夜中でも行くのに」 と熱く語っていた姿は忘れられない。 長い年月を経てもその気持ちが変わっていないのがうれしかった。 人が見ているときだけポイントを稼ぐなんて小さいね。思わず自分を振り返ってみた。
 まあ上記のような人だ。
 キャンプや2軍球場で見かけるときの中原コーチ補佐は、 いつもレガースにプロテクターという重装備で、 投球練習の相手をしているか、荷物を運んでいるかのどちらかだ。 中日の選手はヨゴレばっかりで他球団に胸を張って自慢できる選手があまりいないが、 中原コーチ補佐は、数少ない「うちには日本一の裏方がいる!」と誇っていい人だ。

95 山田 和利

2軍内野守備走塁コーチ。東邦高−84中日−91広島−96中日(引退)−97中日。
 音重鎮参照。 ケガに泣いた野球人生だったが、むしろカープではこういった「フルシーズンは出場出来ないが、控えで活躍」 といったタイプの選手の方が有り難がられる傾向がある。 何故なら、カープは常に不動のレギュラーメンバーが揃うという事がまずなく、 前田・野村・緒方の“三大ケガ人”に代表するように、年間を通していつもいろんなところにポコポコ穴が開いているのだ。 そのときに「選手がいない!」なんて事がないよう、 カープではレギュラーより控えの方が需要が高いのである。 町田や浅井が、レギュラーを張れるだけの力がありながら、いつまでも「スーパーサブ」で居続けるのはそういった事情が大きく、 もし町田や浅井をレギュラーで使ってしまうと、 カープは「控え不足」という、ある意味では「レギュラー不足」よりも深刻な問題 に陥るのだ。

 そういう意味で、山田和利はカープで重宝されたんではないかな、と思う。

97 長谷部 裕



98 芹沢 裕二

 1軍バッテリーコーチ。大宮東高−87中日−95引退−96中日。
 現役時代は、「中村武志>矢野>吉鶴>松井>芹沢>椎木>長谷部」 といったあたりのポジションだったはずだが、どういうわけか引退後はコーチに。
 「ピッチャーのクイックは1.25秒以内」と言い出すなど理論派で知られるが、 今季谷繁が離脱し、中野にマスクが変わって7盗塁されたときには、 「盗塁はピッチャーにも責任があるんだ!クイックをきちんとしないといかん!」と突然言い出し、 中村さんが毎年の口をすっぱくして若手投手陣にやらせていたクイックの練習を、 谷繁がキャッチャーに代わってからは全くやってなかった 仰天事実が発覚。今さら若手に「クイックのすすめ」を行う手おくれ振りで、ファンの度肝を抜いた。

 かつて87年にロッテから落合博満が移籍したとき、中日選手の自主トレ時間が急増した「落合効果」があったが、 01年の谷繁の移籍では、 ピッチャー陣がより練習に手を抜く、思わぬ「タニシゲ効果」が巻き起こっていたというわけだ。

105 松浦 正

 打撃投手(右)。74年中日ドラフト5位。小倉工高-75中日-79南海84-引退。
 中日時代は4年間で1勝1敗、南海時代は6年間で0勝0敗だった。

110 坂田 和隆

 打撃投手。85年福岡ダイエードラフト5位。鎮西-九州産大-86福岡ダイエー89-引退。
プロ通算成績は3年間で1軍登板なし。引退後、ダイエーの打撃投手として主に秋山の面倒をみる。

111 平沼 定春

 打撃投手。82年中日ドラフト2位。千葉商大高-83中日-87ロッテ-96中日-88西武-89引退。
 最初の中日時代は4年間で1勝3敗。87年にロッテ・落合博満との歴史に残る4対1のトレードの駒となりロッテへ。 ロッテ時代は9年間で17勝19敗ととりあえずの数字を残し、中日に復帰したあと西武などを渡り歩いた。

114 奥田 修

 ブルペンキャッチャー兼用具係。69年阪神ドラフト外。洲本実業-小西酒造-70阪神-72中日-74引退。
 引退後は中日のブルペンキャッチャー・コーチ補佐を勤め、  現役時代より裏方のキャリアが長い大ベテラン。用具のことは奥田に聞け。
 現役時代は1軍登録なし。

115 清水 治美

 打撃投手。83年中日ドラフト6位。川越商-日本通運-85中日86。
 1軍出場なし。

116 高橋 俊春

 打撃投手(右)。81年広島ドラフト外。伊香高-中京大-日通名古屋-82広島-84西武84。
 広島時代は0勝2敗。

117 小林 亮寛

 打撃投手。97年千葉ロッテドラフト6位。PL学園-98ロッテ-03引退。登録名“亮寛(りょうかん)”。
 通算5年間で1軍登板なし。

118 永田 能隆

 打撃投手(左)。98オリックスドラフト6位。武豊高−名城大−北陸銀行−98オリックス99-00中日打撃投手-01中日-02中日打撃投手。
 00年オフ、プロ2年目のシーズンを終え結納を明日に控え、 オリックスの新人寮から新居への引越しの準備をしているとき、 球団から戦力外通告の連絡を受けた男。オリックス関連会社への就職斡旋を断り、中日のテストを受ける。 採用の合否を待たずに無職のまま新婚旅行へ。 旅行からかえると、留守電に打撃投手としての採用が録音されていたという。 翌年、山田久志の推薦で現役復帰するが、 「今日から1軍に帯同してくれ」といわれ喜んでナゴヤドームに行くと、 試合前のバッティング練習の打撃投手をさせられたという(鬼か>久志)。 そのため、1軍と2軍を(登録とは別に)行ったり来たりする生活が続き、 自分の調整も思うままにいかず、結局打撃投手に戻った。 魔球ナックルを投げるといわれてるが、1軍登板がないので誰も見たことがないミステリアスな投手だ。

119 佐藤 康幸

 打撃投手(左)。96年ドラフト6位。河合楽器-97中日-広島。

121 三輪 敬司

 ブルベンキャッチャー。94年ドラフト5位。愛工大名電-中日。

122 藤井 優志

 ブルベンキャッチャー。95年ドラフト3位。大阪学院大-96中日02。

123 井本 直樹

 打撃投手(左)。00年ドラフト3位。新日鉄名古屋-01中日。

124 西 清孝

 打撃投手(右)。東灘高-84南海ドラフト外-90広島-94横浜打撃投手-95横浜-99引退。
初勝利は97.4.25。プロ入り13年目。 この年の契約更改では1000→2400万へ年俸大幅アップ。「冷蔵庫を買いたい」。 南海・ダイエー時代 7年間で0勝0敗。 広島時代は4年間で0勝0敗。 横浜時代は4年間で2勝5敗。

126 竹内 昌也

 打撃投手。秋田県出身。本荘高-NTT東北-93阪神ドラフト2位-00日ハム-02引退。
阪神時代は7年間で28勝28敗。
ハム時代は2年間で0勝1敗

選手
00柳沢 裕一
0栗山 聡
1福留 孝介
2荒木 雅博
3立浪 和義
4酒井 忠晴
5渡辺 博幸
6井端 弘和
7谷繁 元信
8森岡 良介
9田上 秀則
11川上 憲伸
12岡本 真也
13岩瀬 仁紀
14平松 一宏
16森野 将彦
17紀藤 真琴
18エディ
19久本 祐一
20川崎 憲次郎
21正津 英志
22オチョワ
23関川 浩一
24遠藤 政隆
25前田 新悟
26落合 英二
27中野 栄一
28中里 篤史
29山井 大介
30小林 正人
31植 大輔
32洗平 竜也
33小山 伸一郎
34山本 昌
35幕田 賢治
36平井 正史
37筒井 壮
38リナレス
39バルガス
40森 章剛
41朝倉 健太
42桜井 好実
43小笠原 孝
44バルデス
45木村 昌広
46土谷 鉄平
47野口 茂樹
48湊川 誠隆
49クルーズ
50善村 一仁
51山北 茂利
52都築 克幸
53仲沢 忠厚
54神野 純一
55前田 章宏
56藤立 次郎
57蔵本 英智
58大西 崇之
59福沢 卓宏
60瀬間仲ノルベルト
61矢口 哲朗
62宮越 徹
63山崎 賢太
64大塚 晶則
65清水 清人
66高橋 光信
67高橋 聡文
68長峰 昌司
99井上 一樹